「江戸時代」の版間の差分

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朝廷ー幕府関係
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江戸時代は[[征夷大将軍]][[徳川氏]]を中心として、[[武士]]階級が支配していた[[封建社会]]であった。おもな[[身分制]]度は、支配階層の[[武士]]と被支配階層である[[百姓]]・[[町人]]の以上3つの身分を基礎としていた。それまで武士と[[農民]]は分離していなかったが、[[豊臣秀吉]]の[[刀狩り]]と武士は[[城下]]・[[町人]]は町屋・農民は村落と住居が固定されるなどにより、武士階級と農民が明確に分離された([[兵農分離]])。しかし江戸時代の各階層にある程度の流動性も見られる。特に江戸には[[飢饉]]などにより地方から流入してきた農民も多く、幕府はしばしば[[帰農令]]を出している。また、全国の[[諸藩]]には、[[郷士]]と呼ばれる自活する武士も存在した。彼らは[[城下]]に住み[[藩主]]から[[俸禄]]をもらっていた武士である[[藩士]]とは明確に区別され、また一段下の身分として[[差別]]されることもあった。幕末に活躍した人々には、[[勤王]]方、幕府方を問わず、[[下級藩士]]・[[郷士]]・[[町人]]など[[軽輩]]階層出身者であった者が多い。
 
幕府と朝廷の関係については諸説ある。[[関白]]・[[太政大臣]]を務めた豊臣秀吉と同様、徳川家康も征夷大将軍に就任し朝廷の権威を利用した。戦国時代以来、領国の一円的領域支配を行った[[公権力]]を[[公儀]]と言い、特に[[天皇]]の権威と一体化して全国支配を達成した徳川幕府を指す。幕府は[[禁中並公家諸法度]]の制定、[[紫衣事件]]などを通じて朝廷支配を強めていった。[[新井白石]]は『[[読史余論]]』で江戸幕府成立を[[朱子学]]に基づき革命と捉え、幕府の正当性を主張した。[[本居宣長]]や[[松平定信]]は[[大政委任論]]を唱えたが、それは幕府権力を肯定する立場に立ったものだった。[[宝暦事件]]の[[竹内式部]]や、[[明和事件]]の[[山県大弐]]、[[霊元天皇]]など、朝廷の権力を取り戻そうとするものもいた。『[[大日本史]]』編纂の過程で成立した[[水戸学]]や[[吉田松陰]]などの思想家は天皇による支配の正統性を説き、[[倒幕運動]]・[[明治維新]]の志士に学ばれた。
幕府は江戸、[[大坂]]、[[京都]]に[[町奉行]]・[[所司代]]を置き重視したが、そのほか[[伊豆国|伊豆]]・[[日田市|日田]]・[[長崎市|長崎]]・[[新潟県|新潟]]・[[飛騨国|飛騨]]や[[重要鉱山]]に[[代官]]を配置し支配した。これらの支配力は単に一都市に限らず、[[京都所司代]]は[[山城国|山城]]・[[丹波国|丹波]]・[[近江国|近江]]など、[[大坂町奉行]]は[[西日本]]諸国の[[天領]]の[[采配]]がそれぞれ許されるなど、[[管轄]]地の諸大名を監察する役目もあった([[京都所司代]]は[[朝廷]]も監視していた)。ただし、彼らの用いる兵力はほとんどなく、18世紀初頭の[[長崎奉行]]は10数人、幕末の五条代官所でも30人しかいなかった。
 
は江戸、[[大坂]]、[[京都]]に[[町奉行]]・[[所司代]]を置き重視したが、そのほか[[伊豆国|伊豆]]・[[日田市|日田]]・[[長崎市|長崎]]・[[新潟県|新潟]]・[[飛騨国|飛騨]]や[[重要鉱山]]に[[代官]]を配置し支配した。これらの支配力は単に一都市に限らず、[[京都所司代]]は[[山城国|山城]]・[[丹波国|丹波]]・[[近江国|近江]]など、[[大坂町奉行]]は[[西日本]]諸国の[[天領]]の[[采配]]がそれぞれ許されるなど、[[管轄]]地の諸大名を監察する役目もあった([[京都所司代]]は[[朝廷]]も監視していた)。ただし、彼らの用いる兵力はほとんどなく、18世紀初頭の[[長崎奉行]]は10数人、幕末の五条代官所でも30人しかいなかった。
 
幕府は政治力と経済力を分け隔てている。幕閣となりうる譜代大名には、そのほとんどが5万石から10万石程度の低い石高しか充てられなかったのに対し、幕政に関与することを決して許さなかった外様大名の多くには数十万石の大封と[[国持大名]]の格式が与えられた。しかもその幕閣ですら、[[大老]]の特例を除き、定員4 - 5名の[[老中]]が重要案件は合議で、日常案件は月番制で決裁を行うという権力の分散が比較的早い時期に図られている。これは室町幕府において[[三管領]]の一家であり、かつ複数の大国の[[守護]]を兼ねた[[細川氏]]が、やがては管領職を独占するほどの世襲権力となって足利将軍家をも圧倒するようになったことに対する反省である。