「浅井畷の戦い」の版間の差分

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== 経緯 ==
慶長3年([[1598年]])の[[豊臣秀吉]]の死後、次の天下人の座をめぐって[[徳川家康]]が台頭する{{sfn|見瀬|2002|p=110}}。これに対して、豊臣氏擁護の立場から、[[豊臣氏]][[五奉行]]の一人である[[石田三成]]や[[大谷吉継]]らが慶長5年([[1600年]])、[[会津征伐]]に向かった[[徳川家康]]ら東軍に対して、敢然と挙兵したのである{{sfn|見瀬|2010|p=10}}。
 
[[前田利長]]は豊臣氏[[五大老]]の一人で、[[前田利家]]の嫡男であったが、利家の死後、生母の[[芳春院]](まつ)を人質として江戸に差し出していた経緯から、東軍に与した。一方、西軍の[[大谷吉継]][[前田利長]]の動きを封じるため、[[越前国|越前]]や[[加賀国|加賀]]南部における諸大名に対して勧誘工作を行なった。その結果、越前の諸大名の多くが、西軍に与した。
 
*[[青木一矩]](北之庄城21万石)
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*[[織田秀雄]](大野5万石。[[織田信長]]の次男・[[織田信雄]]の子)
*[[木下頼継]](2万5000石)
*[[丹羽長重]](加賀小松12万5000石。信長の家臣だった[[丹羽長秀]]の子)
*[[丹羽長正]](越前東郷5万石。長重の弟)
*[[戸田勝成|戸田重政]](越前安居1万石)
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*[[山口修弘]](1万3000石。宗永の長男)。
 
吉継の勧誘工作は成功であった。これにより、西軍は一戦も交えることなく、越前と加賀南部の諸大名を味方につけることに成功したのである。これに対して、[[前田利長]]は加賀以南の諸大名が全て敵となったことに危機感を抱き、加賀南部や越前を制圧すべく、2万5000人を率いて慶長5年([[1600年]])7月26日、西軍に与した[[丹羽長重]]が守る[[小松城]]を包囲攻撃した。[[小松城]]の守備兵は長重以下、およそ3000名ほどに過ぎなかったが、[[小松城]]は「北陸無双ノ城郭」(「小松軍記」より)とまで賞賛されるほどの堅城であった。このため、兵力で優位にありながら、前田軍は城を落とすことができなかった。利長はこのため、[[小松城]]にわずかな押さえの兵を残して、西軍の[[山口宗永]]が守る[[大聖寺城]]に向かった。そして8月2日に包囲攻撃を開始したのである。守る山口軍の兵力はおよそ2000人ほどに過ぎず、2万以上の前田軍の前に遂に敗れて、山口宗永・修弘親子は自害した。
 
一方、[[大谷吉継]]は[[伏見城]]攻防戦など、上方にとどまっていたため、しばらくは北陸に対する軍事行動を起こすことができなかったが、8月3日に入って越前敦賀に入り、北陸方面に対する軍事行動を起こした。しかし、吉継の率いる兵力はおよそ6000人ほどに過ぎなかった。
 
吉継は前田軍に対して、「[[上杉景勝]]が[[越後国|越後]]を制圧して加賀をうかがっている」・「西軍が伏見城を落とした」・「西軍が上方を全て制圧した」・「[[大谷吉継]]が越前北部に援軍に向かっている」・「[[大谷吉継]]の別働隊が、[[金沢城]]を急襲するために海路を北上している」など、虚虚実実の流言を流したのである。この流言に[[前田利長]]は動揺した。
 
さらに吉継は、西軍挙兵のときに捕らえていた[[中川光重]](利長の妹婿)を半ば脅迫して、利長宛に偽書を作成させ、それを[[前田利長]]のもとへ届けさせた。その文面は次の通りである。
 
「今度大軍を催サレ、近国ヲ打ナビケ、上方発向有之由聞候。是ニ因リテ、大坂ヨリ大軍、敦賀表ヘ出張ス。大谷刑部、敦賀ヨリ兵船ヲ揃エ、貴殿出軍ノ跡を加州ノ浦々へ乱入セント欲ス。足長ニ出発候テ、海陸前後に敵を受ケタマヒテハ、始終覚束ナク候。能々御思慮有ルベシ」