「ヴォロコラムスク」の版間の差分

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[[ファイル:Volokolamsk center.jpg|thumb|250px|ヴォロコラムスクの[[クレムリ]]([[城塞]])]]
[[ファイル:Volok1.jpg|thumb|250px|ヴォロコラムスクの市街地]]
ヴォロコラムスクは、ヴォスクレセンスク年代記の[[1135年]]の条ではじめて記録に登場している。ラーマ川はヴォルガ川の上流と[[モスクワ川]]を結ぶ内陸水路であり、ヴォロコラムスクはラーマ川とモスクワ川の間の丘を越える5キロメートルほどの{{仮リンク|[[連水陸路|ru|Волок|en|Portage}}]](ヴォロク、{{lang|ru|Волок}})の上に、[[ノヴゴロド]]の商人が建設した町であった。ノヴゴロド商人はラーマ川からこの丘を越えて船を運んでモスクワ川へ下ろし、[[モスクワ]]や[[リャザン]]へ荷を運んでいた。ヴォロコラムスクという地名は、ラーマ川の連水陸路(ヴォロク)の町であることに由来する。[[1398年]]まで、ヴォロコラムスクは[[ノヴゴロド共和国]]の最南端の飛び地であった。
 
[[1178年]]、ヴォロコラムスクは[[フセヴォロド3世|フセヴォロド3世(大巣公)]]により襲われ火を放たれ、[[ウラジーミル・スーズダリ大公国]]へと編入されたが、大巣公の息子である[[ヤロスラフ2世 (ウラジーミル大公)|ヤロスラフ2世]]は[[1231年]]にヴォロコラムスクをノヴゴロドへ返還した。1237年の[[モンゴルのルーシ侵攻|モンゴルのロシア襲来]]後、町は二分され、それぞれノヴゴロド共和国とウラジーミル大公国に属するようになった。[[1273年]]には[[トヴェリ公国]]軍が包囲したが、占領に失敗した。