「アナスタシア・ニコラエヴナ」の版間の差分

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皇帝一家殺害に参加した[[チェーカー]]([[秘密警察]])勤務員の息子、ミハイル・メドヴェージェフは「父から聞いたのですが、死体をトラックに積み込む時、父はこの作業を指揮していたのですが、大公女の一人の衣装の袖から小さな犬の死骸が転げ落ちたそうです」と話している<ref>[[#ラジンスキー上(1993年)|ラジンスキー上(1993年)]] p.194</ref>。
 
== アナスタシア伝説 ==
[[File:Nicholas II and children with Cossacks of the Guard, cropped.jpg|thumb|300px|left|1916年頃。左からアナスタシア、オリガ、ニコライ2世、アレクセイ、タチアナ、マリア。後ろに[[コサック]]が並んでいる]]
=== 「生存説」の背景 ===
[[File:838519023 tonnel-1-.jpg|thumb|150px|left|[[アンナ・アンダーソン]]]]
警護兵の何人かの証言は皇帝一家に同情的な警護兵が生存者を救出する可能性があったことを示している。銃殺隊員達は緊張と興奮を鎮めるために[[ウォッカ]]を飲んでいたし、隊長のユロフスキーでさえ眼前に横たわる遺体の数を数え間違えたほどであった<ref>[[#ラヴェル(1998年)|ラヴェル(1998年)]] p.92</ref>。ユロフスキーは殺害に関わった警護兵達に彼のオフィスに来て、殺害後に一家から盗んだ物品を返却するように要求した。犠牲者の遺体の大部分がトラック内、地下、家の廊下に放置された時、大体の時間のスパンは伝えられていた。一家に同情的で殺害に参加していなかった何人かの警護兵は地下室に居残っていた<ref name="King314">[[#King, Wilson(2003年)|King, Wilson(2003年)]] p.314</ref>。
 
アナスタシア生存説は20世紀の最も有名な謎の一つであった。数多くの女性が自分がアナスタシアであると主張し、他の家族が殺害された状況でどのように生き延びたかに関して様々な物語を提供した。[[ソビエト連邦共産党|ソ連共産党]]当局が政権基盤が固まるまで「ニコライ2世は処刑されたが、他の家族は安全な場所に護送された」という[[偽情報]]({{仮リンク|ソビエト連邦のプロパガンダ|en|Propaganda in the Soviet Union}})を流し続けたこともこうした噂の広まりを助長した<ref>[[#King, Wilson(2010年)|King, Wilson(2010年)]] p.67</ref><ref>[[#マッシー(1999年)|マッシー(1999年)]] p.206</ref>。
 
一家殺害後に出現した{{仮リンク|ロマノフ家の詐称者|en|Romanov impostors}}は全員合わせて200人以上もいたと言われている<ref>{{Cite web|url=http://www.romanov-memorial.com/pretenders.htm|title=- The Pretenders -|publisher=Romanov-memorial.com|language=英語|accessdate=2014年6月25日}}</ref>。共通しているのがエカテリンブルクの殺害実行者の中に、皇帝一家に同情する人物が一人もしくは複数混じっていて密かに家族の何人かを逃したという出だしから物語が始まっているという点である<ref>[[#マッシー(1999年)|マッシー(1999年)]] p.205</ref>。

=== アンナ・アンダーソン ===
[[File:838519023 tonnel-1-.jpg|thumb|150px|[[アンナ・アンダーソン]]]]
{{main|アンナ・アンダーソン}}
僭称者の中で最も知られている'''[[アンナ・アンダーソン]]'''は[[1920年]]2月18日に[[ヴァイマル共和政|ドイツ国]]の[[ベルリン]]で自殺しようとしていたところを発見された。以下は当時取り調べた警察が残した公式記録である。
{{cquote|''1920年2月18日、ベルリン。身元不明の娘による自殺未遂事件。昨日、午後9時、20歳前後の娘が自殺の意思を持って、ベントラー橋から{{仮リンク|ラントヴェール運河|en|Landwehr Canal}}に飛び込んだ。娘は巡査部長に助け上げられ、ルツォウ通りのエリーザベト病院に収容された。所持品の中には身分証明書や貴重品に関する物は皆無で、娘は自分の身元についても、自殺未遂の動機についても口を閉ざして語ろうとしない。''<ref>[[#ラヴェル(1998年)|ラヴェル(1998年)]] p.102</ref>
}}
 
自殺未遂から2年後の[[1922年]]6月30日に、突然倒れて[[モルヒネ]]を投与されたアンダーソンは保護してくれたクライスト男爵夫妻に自分がアナスタシアであると話した<ref>[[#ラヴェル(1998年)|ラヴェル(1998年)]] pp.118-119</ref>。エカテリンブルクの惨劇時に銃弾を受けて意識を失っていたところを、まだ生きていることに気付いた一家に同情的なアレクサンドル・チャイコフスキーという名の警護兵によって助けられ、チャイコフスキーの一家とともにロシアから[[ルーマニア王国]]へ向けて脱出する途中に彼の子供を身篭った。チャイコフスキーは[[ブカレスト]]の市街戦で戦死し、アンダーソンが産んだ男の子は[[孤児院]]に預けられたという<ref>[[#サマーズ, マンゴールド(1987年)|サマーズ, マンゴールド(1987年)]] p.262</ref>。しかし、ルーマニア王妃[[マリア (ルーマニア王妃)|マリア]]が後援して実施された調査ではブカレストで当時市街戦があったという記録は無く、彼女の息子アレクシスへの[[洗礼]]についてもすべての[[神父]]を探したが、その記録に該当する人物は見付からなかった<ref>[[#桐生(1996年)|桐生(1996年)]] p.159</ref>。[[1925年]]7月17日、かつてアナスタシアのフランス語の家庭教師を務めたピエール・ジリヤールとその夫人がアンダーソンが入院する病院を訪れたが、そばの人に皇帝の子供達の元乳母でもある夫人のアレクサンドラ・テグレヴァ(通称シュラ)が誰なのか聞かれてアンダーソンは「父の一番下の妹です」と答え、同じ時期に訪問することが伝えられていたアナスタシアの叔母のオリガ・アレクサンドロヴナと勘違いしていた<ref>[[#桐生(1996年)|桐生(1996年)]] p.161</ref>。それから3ヵ月後に2人は再び見舞ったが、アンダーソンが手に[[オーデコロン]]を振り掛けるのを見て、シュラ夫人はアナスタシアがよく同じような真似をしていたのを思い出した<ref>[[#ラヴェル(1998年)|ラヴェル(1998年)]] p.140</ref>。ジリヤールが過去、特にシベリアでのことについて色々聞き出そうとして大して成果が得られなかったが、翌日の帰り際にはシュラ夫人は愛しさと懐かしさのあまり、目に涙を浮かべていたという<ref>[[#マッシー(1999年)|マッシー(1999年)]] p.246</ref>。ジリヤールはアンダーソンが皇帝一家の生活の細部について知っていることはすべてが発表されている回顧録の類いを読んだり、写真で見て知ったことに過ぎないとして彼女を「俗悪な女山師」「一級品の女優」と評した<ref>[[#ラヴェル(1998年)|ラヴェル(1998年)]] pp.146-147</ref><ref>[[#マッシー(1999年)|マッシー(1999年)]] pp.248-249</ref>。
{{main|アンナ・アンダーソン}}
 
自殺未遂から2年後の[[1922年]]6月30日に、突然倒れて[[モルヒネ]]を投与されたアンダーソンは保護してくれたクライスト男爵夫妻に自分がアナスタシアであると話した<ref>[[#ラヴェル(1998年)|ラヴェル(1998年)]] pp.118-119</ref>。エカテリンブルクの惨劇時に銃弾を受けて意識を失っていたところを、まだ生きていることに気付いた一家に同情的なアレクサンドル・チャイコフスキーという名の警護兵によって助けられ、チャイコフスキーの一家とともにロシアから[[ルーマニア王国]]へ向けて脱出する途中に彼の子供を身篭った。チャイコフスキーは[[ブカレスト]]の市街戦で戦死し、アンダーソンが産んだ男の子は[[孤児院]]に預けられたという<ref>[[#サマーズ, マンゴールド(1987年)|サマーズ, マンゴールド(1987年)]] p.262</ref>。しかし、ルーマニア王妃[[マリア (ルーマニア王妃)|マリア]]が後援して実施された調査ではブカレストで当時市街戦があったという記録は無く、彼女の息子アレクシスへの[[洗礼]]についてもすべての[[神父]]を探したが、その記録に該当する人物は見付からなかった<ref>[[#桐生(1996年)|桐生(1996年)]] p.159</ref>。[[1925年]]7月17日、かつてアナスタシアのフランス語の家庭教師を務めたピエール・ジリヤールとその夫人がアンダーソンが入院する病院を訪れたが、そばの人に皇帝の子供達の元乳母でもある夫人のアレクサンドラ・テグレヴァ(通称シュラ)が誰なのか聞かれてアンダーソンは「父の一番下の妹です」と答え、同じ時期に訪問することが伝えられていたアナスタシアの叔母のオリガ・アレクサンドロヴナと勘違いしていた<ref>[[#桐生(1996年)|桐生(1996年)]] p.161</ref>。それから3ヵ月後に2人は再び見舞ったが、アンダーソンが手に[[オーデコロン]]を振り掛けるのを見て、シュラ夫人はアナスタシアがよく同じような真似をしていたのを思い出した<ref>[[#ラヴェル(1998年)|ラヴェル(1998年)]] p.140</ref>。ジリヤールが過去、特にシベリアでのことについて色々聞き出そうとして大して成果が得られなかったが、翌日の帰り際にはシュラ夫人は愛しさと懐かしさのあまり、目に涙を浮かべていたという<ref>[[#マッシー(1999年)|マッシー(1999年)]] p.246</ref>。ジリヤールはアンダーソンが皇帝一家の生活の細部について知っていることはすべてが発表されている回顧録の類いを読んだり、写真で見て知ったことに過ぎないとして彼女を「俗悪な女山師」「一級品の女優」と評した<ref>[[#ラヴェル(1998年)|ラヴェル(1998年)]] pp.146-147</ref><ref>[[#マッシー(1999年)|マッシー(1999年)]] pp.248-249</ref>。
[[1925年]]7月17日、かつてアナスタシアのフランス語の家庭教師を務めたピエール・ジリヤールとその夫人がアンダーソンが入院する病院を訪れたが、そばの人に皇帝の子供達の元乳母でもある夫人のアレクサンドラ・テグレヴァ(通称シュラ)が誰なのか聞かれてアンダーソンは「父の一番下の妹です」と答え、同じ時期に訪問することが伝えられていたアナスタシアの叔母のオリガ・アレクサンドロヴナと勘違いしていた<ref>[[#桐生(1996年)|桐生(1996年)]] p.161</ref>。それから3ヵ月後に2人は再び見舞ったが、アンダーソンが手に[[オーデコロン]]を振り掛けるのを見て、シュラ夫人はアナスタシアがよく同じような真似をしていたのを思い出した<ref>[[#ラヴェル(1998年)|ラヴェル(1998年)]] p.140</ref>。ジリヤールが過去、特にシベリアでのことについて色々聞き出そうとして大して成果が得られなかったが、翌日の帰り際にはシュラ夫人は愛しさと懐かしさのあまり、目に涙を浮かべていたという<ref>[[#マッシー(1999年)|マッシー(1999年)]] p.246</ref>。ジリヤールはアンダーソンが皇帝一家の生活の細部について知っていることはすべてが発表されている回顧録の類いを読んだり、写真で見て知ったことに過ぎないとして彼女を「俗悪な女山師」「一級品の女優」と評した<ref>[[#ラヴェル(1998年)|ラヴェル(1998年)]] pp.146-147</ref><ref>[[#マッシー(1999年)|マッシー(1999年)]] pp.248-249</ref>。
 
第一次世界大戦中の1916年に当時の[[ヘッセンの統治者一覧#ヘッセン大公(1806年 - 1918年)|ヘッセン大公]]の[[エルンスト・ルートヴィヒ (ヘッセン大公)|エルンスト・ルートヴィヒ]](アレクサンドラの兄)が単独講和を話し合うためにアレクサンドロフスキー宮殿を訪れたという情報がアンダーソンによって初めて公に暴露された。敵国同士であったためにこの情報は極秘とされており、大公本人も訪問したことを否定した<ref>[[#サマーズ, マンゴールド(1987年)|サマーズ, マンゴールド(1987年)]] pp.288-290</ref>。ルートヴィヒはアンダーソンを「あの女はペテン師だ」「狂人だ」「恥知らずの女」と徹底的に罵り、[[探偵]]を雇って調査させて[[1927年]]3月にはアンダーソンなる女性は実はポーランド生まれの農民出身の工場労働者'''フランツィスカ・シャンツコフスカ'''(アンダーソンが登場する直前に失踪)であることを突き止めた<ref>[[#ラヴェル(1998年)|ラヴェル(1998年)]] pp.167-168</ref><ref>[[#マッシー(1999年)|マッシー(1999年)]] pp.253-256</ref>。ところが、対面したシャンツコフスカの2人の兄と2人の姉が最終的に彼女を自分達の妹として認めることを拒否した(片方の兄と姉は最初は彼女が妹であることを認めていた)<ref>[[#マッシー(1999年)|マッシー(1999年)]] pp.256-257</ref>。ルートヴィヒの戦時中のロシア訪問について、アンダーソンを支持する証言が30年近く経過した後から次々に寄せられたが、その中の一つが戦時中のヘッセン大公が訪問したという情報を入手しているという亡命者にこれまで7人も出会ったという、アンダーソンが関係者から情報を入手している可能性が少なからずあったことを示唆するものでもあった<ref>[[#桐生(1996年)|桐生(1996年)]] pp.172-174</ref>。
 
また、ツァールスコエ・セローの離宮の敷地内にある民間病院にかつて負傷兵として入院していたフェリックス・ダッセルは1927年に、マリアとアナスタシアしか知り得ないような病院に関する誤った質問をいくつかぶつけたが、アンダーソンはこれを見事にクリアした。ダッセルがマリアとアナスタシアは毎日病院を訪れ、時にはアレクセイも連れ立って来たと言った時には、アンダーソンはこれを姉妹は1週間に2回か3回しか行けず、アレクセイを連れて行ったことは一度も無いと正しく指摘した。また、知り合いのロシア人老[[大佐]]について話した時、アンダーソンは懐かしい声で「ポケットに手を入れていた男」と言った。これはダッセルもすっかり忘れていたが、「ポケットの男」というのがアナスタシアがこの無作法の老大佐に付けたあだ名であった。ダッセルは「ここで突然、彼女を確認した。間違い無い」と述べている<ref>[[#サマーズ, マンゴールド(1987年)|サマーズ, マンゴールド(1987年)]] pp.303-304</ref>。[[1958年]]5月23日の法廷の供述で、クライスト男爵夫人が偶然にもアンダーソンと対面する何年も前にダッセルが男爵家を訪れてツァールスコエ・セローの病院での話をしていたことを証言した<ref>[[#桐生(1996年)|桐生(1996年)]] pp.171-172</ref>。
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アンダーソンは[[1984年]][[2月12日]]に[[肺炎]]で亡くなり、[[火葬]]にされた<ref>[[#ラヴェル(1998年)|ラヴェル(1998年)]] pp.453-455</ref>。死後10年が経過した[[1994年]]に彼女が生前に手術した際に摘出した[[腸]]の一部組織の標本を使用して[[DNA型鑑定|DNA鑑定]]が実施された。ところが、専門家が[[ミトコンドリアDNA]]を比較した結果、アレクサンドラの一番上の姉[[ヴィクトリア (ミルフォード=ヘイヴン侯爵夫人)|ヴィクトリア]]の孫、[[フィリップ (エディンバラ公)|エディンバラ公フィリップ王配]]のものとは遺伝的な繋がりが認められなかった<ref>[[#植田(1998年)|植田(1998年)]] pp.39-40</ref>。一方で、フランツィスカ・シャンツコフスカの甥とはミトコンドリアDNAが一致したことが明らかにされた<ref>{{Cite web|url=http://www.history.com/this-day-in-history/anastasia-arrives-in-the-united-states|title=THIS DAY IN HISTORY 1928 Anastasia arrives in the United States|publisher=History.com|language=英語|accessdate=2015年5月31日}}</ref>。一部のアンダーソン支持者は彼女が大公女では無かったと証明するこの鑑定の結果を素直に受け入れた<ref>[[#Kurth(1995年)|Kurth(1995年)]] p.218</ref>。
 
=== ユージニア・スミス ===
[[1963年]]10月18日にアメリカの最も有名な写真週刊誌''[[ライフ (雑誌)|ライフ]]''誌に自身がアナスタシアだと主張する{{仮リンク|ユージニア・スミス|label='''ユージニア・スミス'''|en|Eugenia Smith}}の新刊自叙伝の抜粋記事が掲載されて注目を浴びた<ref>[[#マッシー(1999年)|マッシー(1999年)]] p.222</ref>。[[ポリグラフ]]の専門家や元[[中央情報局|CIA]]のエージェントが彼女を[[嘘発見器]]で30時間にわたり尋問した結果、アナスタシア本人であると結論付けられた。ところが、筆跡鑑定家と2人の[[人類学|人類学者]]からは同一の女性では有り得ないと結論付けられ、タチアナ・ボトキナからは自分が皇帝一家について書いた本の内容と彼女の本との間に著しい類似点があることが指摘された<ref>[[#マッシー(1999年)|マッシー(1999年)]] p.224</ref>。
 
=== ナデジュダ・ヴァシリイェヴァ ===
{{仮リンク|ナデジュダ・ヴァシリイェヴァ|label='''ナデジュダ・ヴァシリイェヴァ'''|en|Nadezhda Vasilyeva}}は1920年に身分証明書を偽造して[[中華民国]]に入国しようと企み、ボリシェヴィキ当局によって逮捕された。自身がアナスタシアであることを主張して「ジョージ叔父様」と呼び掛けて[[イギリスの君主|イギリス国王]][[ジョージ5世 (イギリス王)|ジョージ5世]]に助けを求める手紙を[[ドイツ語]]とフランス語で書き、[[大使館]]経由で送ろうとしたが、失敗した。その後は監獄と精神病院を転々として[[1971年]]に亡くなった。[[カザン]]の病院長は「彼女は自分がアナスタシアだという主張を除けば、完全に正気だった」と述べている<ref>[[#マッシー(1999年)|マッシー(1999年)]] p.207</ref><ref>{{Cite web|url=http://www.sovsekretno.ru/articles/id/804|title=Принцесса из Казанской психушки|publisher=Совершенно секретно|language=ロシア語|accessdate=2014年6月17日}}</ref>。
 
=== その他の救出説 ===
この他にはロシア皇室の近衛兵を務めていたピョートル・ザミアトキンという人物が他の家族の殺害後にアナスタシアと彼女の弟アレクセイを[[ブルガリア]]の小さな村に避難させたと語った。ザミアトキンによるとアナスタシアは{{仮リンク|エレオノーラ・クルーガー|en|Eleonora Kruger}}という名で生活し、[[1954年]]に亡くなった<ref name="King314" />。また、アナスタシアとその姉マリアであると主張する2人の若い女性が[[1919年]]に[[ウラル山脈]]の奥地にある山村で司祭によって匿われ、[[1964年]]に亡くなるまでこの地で[[修道士|修道女]]に姿を変え、怯えながら2人一緒に暮らしたという話が伝えられている。それぞれアナスタシア・ニコラエヴナとマリア・ニコラエヴナの名で埋葬された<ref>[[#マッシー(1999年)|マッシー(1999年)]] pp.207-208</ref>。