「別海駅」の版間の差分

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[[ファイル:Bekkai eki.jpg|right|thumb|1977年の別海駅と周囲約500m範囲。上が中標津方面。駅舎が改築されたばかりの頃の写真。両方向に車両が見え、別海駅で行き違いが行われている状況が見て取れる。駅裏のストックヤードは殆んど使われていない。駅横の貨物積卸場付近から本線横の小道を2ブロック北上し、90°西へ曲がって道道243号上を中西別へ向かっていた殖民軌道西別線の痕跡は跡形も無い。{{国土航空写真}}]]
'''別海駅'''(べっかいえき)は、かつて[[北海道]][[野付郡]][[別海町]](べつかいちょう)別海旭町に設置されていた、[[北海道旅客鉄道]](JR北海道)[[標津線]]の[[鉄道駅|駅]]である。[[電報略号 (鉄道)|電報略号]]は'''ヘカ'''。標津線の[[廃線]]に伴い、1989年(平成元年)4月30日に[[廃駅]]となった。
 
== 駅の構造 ==
貨物及び荷物取り扱い廃止までは、駅舎に接する単式ホームと島式ホームからなる国鉄型配線の2面3線を有する列車行き違い可能駅であった。このうち島式ホームの外側の線は副本線として主に貨物の留置き、あるいは構内東側からの貨物の積降用に使用された。駅舎は構内の西側(中標津方面に向かって左側)にあり、駅舎横の中標津側には貨物積降場が設けられ、中標津側から駅舎横まで貨物積降線が1本引き込まれていた。このため駅舎前のホームは厚床寄り、島式ホームは中標津寄りにずれて置かれ、駅舎側ホームの駅舎正面から島式ホームの厚床側端へ線路を横切る形で連絡通路があった。
 
貨物及び荷物取り扱い廃止後は副本線と貨物積降線が撤去され、廃駅となるまで相対式(※単式と島式の片面使用)ホーム2面2線を有する列車行き違い可能駅であった。
 
 
駅の近くには、この線が完成する以前の1929年(昭和4年)から1956年(昭和31年)まで、最盛期の1939年(昭和14年)から1949年(昭和24年)には別海町上春別の春日停車場を経て同線本線の[[西春別駅]]前([[新西春別停車場]])まで繋がる、[[殖民軌道]][[西別線]]の停車場が置かれていた。
 
== 歴史 ==
 
*[[1933年]](昭和8年)[[12月1日]] - [[日本国有鉄道|国有鉄道]]標津線の'''西別駅'''(にしべつえき)として開業。[[一般駅]]。釧路機関庫西別駐泊所設置。
*[[1934年]](昭和9年)[[10月1日]] - 釧路機関庫西別駐泊所廃止。
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=== 駅名の由来 ===
{{See also|別海町#町名の由来}}
町名より。本来は同町海岸沿いの本別海地区のアイヌ語名である<ref>{{Cite book|author=本多 貢|editor=児玉 芳明|title=北海道地名漢字解|url=https://www.worldcat.org/oclc/40491505|date=1995-01-25|year=|accessdate=2018-10-16|publisher=[[北海道新聞社]]|language=日本語|isbn=4893637606|page=82|location=札幌市|last2=|author2=|first2=|author3=|author4=|author5=|author6=|author7=|author8=|author9=|oclc=40491505}}</ref>。
 
旧称である西別は旧地区名であり、現在の西別川の[[アイヌ語]]名「ヌウㇱペッ(nu-us-pet)」(豊漁の・川)に由来する<ref>{{Cite book|author=本多 貢|editor=児玉 芳明|title=北海道地名漢字解|url=https://www.worldcat.org/oclc/40491505|date=1995-01-25|year=|accessdate=2018-10-16|publisher=[[北海道新聞社]]|language=日本語|isbn=4893637606|page=70|location=札幌市|last2=|author2=|first2=|author3=|author4=|author5=|author6=|author7=|author8=|author9=|oclc=40491505}}</ref><ref>{{Cite book|和書|editor=札幌鉄道局編|title=駅名の起源|year=1939|publisher=北彊民族研究会|page=76|id={{NDLJP|1029473}}}}</ref><ref>{{Cite book|和書|editor=札幌鉄道局|title=駅名の起源|year=1939|publisher=北彊民族研究会|page=170|id={{NDLJP|1029473}}|date=}}</ref>。
 
なお、駅名は「べ'''っ'''かい」であるが、町名の公的表記な読みは「べ'''つ'''かい」である。
 
== 駅構造 ==
貨物及び荷物取り扱い廃止までは、駅舎に接する単式ホームと島式ホームからなる国鉄型配線の2面3線を有する列車行き違い可能駅であった。このうち島式ホームの外側の線は副本線として主に貨物の留置き、あるいは構内東側からの貨物の積降用に使用された。駅舎は構内の西側(中標津方面に向かって左側)にあり、駅舎横の中標津側には貨物積降場が設けられ、中標津側から駅舎横まで貨物積降線が1本引き込まれていた。このため駅舎前のホームは厚床寄り、島式ホームは中標津寄りにずれて置かれ、駅舎側ホームの駅舎正面から島式ホームの厚床側端へ線路を横切る形で連絡通路があった。
 
貨物及び荷物取り扱い廃止後は副本線と貨物積降線が撤去され、廃駅となるまで相対式(※単式と島式の片面使用)ホーム2面2線を有する列車行き違い可能駅であった。
 
 
駅の近くには、この線が完成する以前の1929年(昭和4年)から1956年(昭和31年)まで、最盛期の1939年(昭和14年)から1949年(昭和24年)には別海町上春別の春日停車場を経て同線本線の[[西春別駅]]前([[新西春別停車場]])まで繋がる、[[殖民軌道]][[西別線]]の停車場が置かれていた。
 
== 駅周辺 ==