「レオニード・ブレジネフ」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
83行目:
 
== 共産党指導者 ==
=== 内政 ===
ブレジネフはフルシチョフのスターリン[[個人崇拝]]批判、スターリンの大粛清による犠牲者の名誉回復およびソ連の知的・文化的政策の慎重な自由化、集団指導体制を支援した。しかし自らが指導者に就任すると直ちにこのプロセスを逆に行い始めた。対ドイツ戦勝20周年を記念する1965年5月のスピーチでブレジネフは初めてスターリンに言及した。[[1966年]]4月に彼は第一書記をスターリンの肩書きであった書記長へと改称した。1966年の作家[[ユーリ・ダニエル]]および[[アンドレイ・シニャーフスキー]]の裁判は、抑圧的な文化的政策への回帰の象徴だった。[[ユーリ・アンドロポフ]]指揮下のKGB([[ソ連国家保安委員会]])は、1930年代と40年代の粛清こそ行わなかったが、スターリンのもとで享受した力の多くを回復した。また、政治局の8割以上を自らと同じエンジニア出身者を選んで[[テクノクラシー]]を敷いた<ref>Graham, Loren R. ''The Ghost of the Executed Engineer: Technology and the Fall of the Soviet Union''. Cambridge: Harvard University Press, 1993. 73-74</ref>。
 
=== 内政 ===
[[Image:Carter Brezhnev sign SALT II.jpg|thumb|right|300px|[[ジミー・カーター]]とSALT IIの調印を行うブレジネフ(1979年6月、[[ウィーン]]にて)]]
ブレジネフの支配は1976年12月の70歳の誕生日でピークに達した。スターリンの支配とは異なりブレジネフ支配は尊敬も恐れも集めることが出来なかった。このことにブレジネフ自身がどれくらい気づいていたかは、彼が1979年6月に[[ジミー・カーター]]と調印したSALT II 条約のような国際的首脳会談の運営に夢中になり、国内問題を無視したため不明確である。国内問題は彼の部下、農業担当書記の[[ミハイル・ゴルバチョフ]]のように根本的な改革が必要だとますます確信するようになった者達に残された。しかしながらゴルバチョフはブレジネフに対する指導権で策略を講じなかった。ブレジネフは彼の健康が低下すると共に指導力も弱まっていった。その間にブレジネフはソ連内での自らの地位を強化した。[[1977年]]6月、ポドゴルヌイに引退を強要し、ソ連邦最高会議幹部会議長の地位を党書記長と同等にして議長職に復帰、名実ともにソ連邦最高指導者となった。コスイギンは[[1980年]]の死の直前まで首相として留まったものの、ブレジネフはコスイギンの担当していた経済政策分野に容喙するなど、その影響力を拡大していった。
 
[[1974年]]3月には中将から大将を経ずに[[上級大将]]に昇進していたが、さらに[[1976年]]5月には[[ソ連邦元帥]]となった。それはスターリン時代以来初の「政治的な元帥」だった。ブレジネフは実際に軍の指揮経験がなく、職業軍人の間で彼の元帥就任に対して不満が募ったが、彼らの権力と名声はブレジネフ政権下での持続的な支援として保証された。また国内外からの数多くの勲章授与など、ブレジネフ自身の権威付けも強められた。ソ連共産党の党員証を作り直し、党員第1号たるレーニンの党員証にサインするといった「演出」もおこなわれた。
94 ⟶ 91行目:
 
何よりブレジネフ自身が、[[イギリス]]製の[[ロールス・ロイス]]<ref>{{cite web|url=http://articles.chicagotribune.com/1994-10-30/travel/9410300009_1_brezhnev-stalin-vintage-cars|title=Latvia's Spin On Soviet History|work=[[シカゴ・トリビューン]]|author=Julian Borger|date=1994-10-30|accessdate=2018-03-07}}</ref>、西ドイツ製の[[メルセデス・ベンツ]]<ref>{{cite news|url=http://www.afpbb.com/articles/-/2346051|title=ブレジネフ元書記長のベンツ? ドイツで落札|work=[[AFPBB]]|author=|date=2008-02-04|accessdate=2018-03-07}}</ref>、[[フランス]]製の[[シトロエン]]<ref>[http://www.klassiekerlogeren.nl/main.php/v/SM/Brez/pics/Brezhnev+at+Russian+Embassy+in+Paris_+France.jpg.html Brezhnev and his Citroën SM]</ref>、米国製の[[リンカーン・コンチネンタル]]<ref>{{cite web|url=http://www.criticalpast.com/video/65675057033_visit-of-Leonid-Brezhnev_President-Richard-Nixon_Aspen-House_Lincoln-Continental|title=President Richard Nixon presents a car to Soviet leader Leonid Brezhnev at Camp David during his visit to United States|work=CriticalPast|author=|accessdate=2018-03-07}}</ref>など西側の高級な外車や洋服を好む趣味がある汚職体質の持ち主で、身内にもスキャンダルが絶えなかった。娘ガリーナの交友関係や派手な私生活が噂された他、息子のユーリーも横領の疑いで取り調べを受けている。こうした一族をめぐる醜聞は側近でイデオロギー担当書記の[[ミハイル・スースロフ]]が揉み消すことで明らかにならなかったが彼が死ぬと隠し様が無く、スースロフ後継のイデオロギー担当(第二書記)で[[国家保安委員会]] (KGB) 議長としてブレジネフに仕えていた[[ユーリ・アンドロポフ]]さえもこれには看過出来ず、ブレジネフの死後に彼が最高指導者となるとブレジネフの親族や遺族を汚職容疑で逮捕・摘発した。
 
[[Image:Carter Brezhnev sign SALT II.jpg|thumb|right|300px|[[ジミー・カーター]]とSALT IIの調印を行うブレジネフ(1979年6月、[[ウィーン]]にて)]]
ブレジネフの支配は1976年12月の70歳の誕生日でピークに達した。スターリンの支配とは異なりブレジネフ支配は尊敬も恐れも集めることが出来なかった。このことにブレジネフ自身がどれくらい気づいていたかは、彼が1979年6月に[[ジミー・カーター]]と調印したSALT II 条約のような国際的首脳会談の運営に夢中になり、国内問題を無視したため不明確である。国内問題は彼の部下、農業担当書記の[[ミハイル・ゴルバチョフ]]のように根本的な改革が必要だとますます確信するようになった者達に残された。しかしながらゴルバチョフはブレジネフに対する指導権で策略を講じなかった。ブレジネフは彼の健康が低下すると共に指導力も弱まっていった。その間にブレジネフはソ連内での自らの地位を強化した。[[1977年]]6月、ポドゴルヌイに引退を強要し、ソ連邦最高会議幹部会議長の地位を党書記長と同等にして議長職に復帰、名実ともにソ連邦最高指導者となった。コスイギンは[[1980年]]の死の直前まで首相として留まったものの、ブレジネフはコスイギンの担当していた経済政策分野に容喙するなど、その影響力を拡大していった。
 
=== 外交 ===
106行目:
同じく共産党による一党独裁国家である[[中華人民共和国]]とは、1960年代初めに対立が始まり悪化を続けた。西側とソ連の[[平和共存]]路線に中国が{{仮リンク|反修正主義|en|Anti-revisionism}}を掲げて猛反発したためである。[[ヨシフ・スターリン]]時代のソ連は中国と[[中ソ友好同盟相互援助条約]]で軍事同盟を結び、ソ連は中国に対して多額の経済援助や技術援助を行っていた。
 
しかし、[[スターリン批判]]を行ったフルシチョフに代替わりすると、次第に挑戦的な態度を取り始める。さらに毛沢東はソ連の掲げる[[マルクス・レーニン主義]]を独自に解釈した[[毛沢東思想]]を唱え始め、日本を含む各国の共産党で[[ソ連派]]と[[中国派]]が対立した。[[チベット]]の[[ダライ・ラマ14世]]の亡命を[[インド]]が受け入れたことなどから、中国が[[パキスタン]]を支援してインドを敵視すると、ソ連はインドを支援し、ダライ・ラマもソ連を訪問している。1964年に[[周恩来]]がモスクワを訪れたものの、関係の改善には至らず、[[1969年]]にはウスリー川の[[ダマンスキー島]](中国名:珍宝島)において両国の軍隊による武力衝突が発生([[中ソ国境紛争]])。だが[[第一次インドシナ戦争]]から[[ベトナム戦争]]まで両国とも、[[ベトナム民主共和国|北ベトナム]]側を支持した。しかしベトナムの南北統一後は両国の対応が分かれる。ソ連の支援する[[ベトナム社会主義共和国]]は[[カンボジア・ベトナム戦争]]で[[クメール・ルージュ]]の[[民主カンプチア]]に侵攻して[[カンプチア人民共和国]]を樹立。[[カンプチア王国民族連合政府]]の時代からカンボジアを支援してきた中国は懲罰として[[中越戦争]]を行った。国交正常化で接近した中国と米国は[[ノロドム・シハヌーク]]元国王と[[ポル・ポト]]らによる[[民主カンプチア#三派連合政府|三派連合政府]]を援助し、ソ連はベトナムと[[ヘン・サムリン]]政権を支持する構図であった。同様に[[オガデン戦争]]や[[アンゴラ内戦]]、[[アフガニスタン紛争 (1978年-1989年)|アフガニスタン紛争]]なども米中とソ連の代理戦争の様相を呈した。
 
==== アメリカとの関係 ====
[[ファイル:Leonid_Brezhnev_and_Richard_Nixon_talks_in_1973.png|thumb|300px|[[リチャード・ニクソン]](右)と([[1973年]][[6月19日]])]]
[[File:President Ford aboard a Russian train headed for Vladivostok - NARA - 7160847.jpg|thumb|300px|[[ウラジオストク]]での米ソ首脳会談([[1974年]]11月)<BR /><SUB>右側手前から2人目がブレジネフ、その奥に[[アンドレイ・グロムイコ]]外相。ブレジネフと相対しているのが[[ジェラルド・R・フォード]]、その手前が[[ヘンリー・キッシンジャー]]米国務長官</SUB>]]
[[1971年]]の[[国際連合]]での[[アルバニア決議]]にはソ連も賛成して中国が国際社会から承認を得るも、[[1972年]]2月の[[ニクソン大統領の中国訪問]]に始まった中国とアメリカの関係改善接近を受け、ソ連に対する米中同盟を防ぐためにブレジネフはアメリカとの交渉の新ラウンドを開いた。同年5月に[[リチャード・ニクソン]]大統領がモスクワを訪問、米ソ両首脳は[[第一次戦略兵器制限交渉|戦略兵器制限条約]] (SALT I) に調印し、「'''[[デタント]]'''」(緊張緩和)の始まりとなった。[[1973年]]1月の[[パリ協定_(ベトナム和平)|パリ和平協定]]はベトナム戦争の公式な終了となり、米ソ関係の障害は取り除かれた。ブレジネフは5月に[[西ドイツ]]を訪問し、6月にはアメリカへの公式訪問を行った。
 
「デタント」時代におけるブレジネフの功績は[[1975年]]7月の[[ヘルシンキ]]における[[全欧安全保障協力会議]] (CSCE) で[[ヤルタ体制]]を認めさせたことであった。引き替えにソ連は「参加国は思想、良心、宗教、信仰の自由を含む人権および基本的自由を人種、性別、言語あるいは宗教に関する区別無く尊重する」ことに合意した。しかし、これらの成果は国民からは尊敬されなかった。また、アメリカ国内ではデタント・プロセスを「緊張の弛緩」に関する楽観的なレトリックだとして政治的な反対が募り、ソ連とその衛星国での国内自由化とは一致しなかった。[[第三次中東戦争]]で高まったソ連国内の[[ユダヤ人]]迫害からの移住問題<ref>Ringer, Ronald. Excel HSC modern history. Books.google.ca. p. 390. Retrieved 2013-09-10.</ref><ref>Włodzimierz Rozenbaum, CIAO: Intermarium, National Convention of the American Association for the Advancement of Slavic Studies, Atlanta, Ga., 8–11 October 1975.</ref><ref>Communiqué: Investigation regarding communist state officers who publicly incited hatred towards people of different nationality. Institute of National Remembrance, Warsaw. Publication on Polish site of IPN: July 25th, 2007.</ref>は米ソ関係の障害となり、[[1974年]]11月、[[ウラジオストク]]にてブレジネフと[[ジェラルド・R・フォード]]が会談を行ったが、これらの問題の解決には至らなかった。