「都城秋穂」の版間の差分

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一方、当時の日本の地質学界で権勢を振るっていた[[地学団体研究会]](地団研)の主流派に属する地質学者・岩石学者たちは、[[マルクス思想]]に基づいた歴史法則を解明するための地質学という思想的呪縛に囚われ、物理・化学的手法そのものを批判する立場をとっていた。そのため、都城は1967年、ついに日本の学界を去り、活動の場をアメリカに移すことになる。
 
上記のような説明が都城没後,盛んに行われている。しかし,もともとは都城もマルクス主義に傾倒し,地学団体研究会(地団研)にも参加しており,1964年まで地団研「地球科学」に寄稿している。阿武隈高原の変成岩類についての成因論争(いわゆる阿武隈問題)での都城と地団研・阿武隈研究グループの対立はイデオロギー対立によるものではなく,[[牛来正夫]]や[[黒田吉益]]らの恩師であり,阿武隈研究の先駆者である[[杉健一]]の岩石記載と都城の岩石記載の不一致や,都城(1961)などにおける都城の杉に対する礼節を欠いた記述が原因である。阿武隈問題において,離日した1967年頃都城にはまだ余裕があった。都城が追い詰められたのは離日後の1969年になって,杉がその存在を記載していたが,都城がそれを無視した十字石が阿武隈から再発見報告され,杉の記載の正当性が証明されてからである。それ以前である1967年の都城離日の直接的理由は,都城や都城自伝「地質学の巨人」の編者ら主張するような地団研との対立ではなく,都城の個人的理由によるものである。また井尻正二など地団研関係者が多数論文を寄せた「中央構造線」(杉山隆二編, 1973)に都城も論文を寄せており,地団研を避けての離日という説明と矛盾する。地団研関係者は,都城はかつていっしょに活動した仲間ということもあり,彼の離日理由を公にすることを避けて来たのである。
 
当時のアメリカは[[プレートテクトニクス]]がまさに勃興しつつあり、[[沈み込み帯]]における変成岩の成因論を専門としてきた都城にとっては絶好の研究場であった。都城は、研究対象を海洋底の岩石に広げ、[[中央海嶺]]における岩石構造モデルを構築することに成功した。さらには中央海嶺と沈み込み帯のマグマの系統的な分類を行い、[[火成岩岩石学]]の分野でも重要な成果をあげた。