「さくらんぼテレビジョン」の版間の差分

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== 概要 ==
=== 開局に至るまでの経緯 ===
[[1993年]](平成5年)[[4月1日]]に、それまで[[フジテレビジョン|フジテレビ]](FNN・FNS)系列だった[[山形テレビ]](YTS)が、[[テレビ朝日]]([[All-nippon News Network|ANN]])系列に[[ネットチェンジ#山形テレビ(YTS)のANNネットチェンジからさくらんぼテレビ(SAY)開局に至るまで|ネットチェンジ]]したため、この日を境に当時数多くの人気番組を抱えていた大半のフジテレビ系列のネット番組が山形県内では放映されなくなり、さらに、山形県におけるフジテレビ系番組の基本的な引受先となった[[TBSテレビ|TBS]][[Japan News Network|系列]]の[[テレビユー山形]](TUY)への時差ネットも<ref group="注">[[Nippon News Network|NNN]]・[[日本テレビネットワーク協議会|NNS]]系列[[フルネット局]]に一本化した[[山形放送]](YBC)は、YTSのネットチェンジに協力したとしてフジテレビから[[フジネットワーク|FNS]]系列局全体の番組の[[番組販売|販売]]を基本的に拒否された。</ref>、『[[サザエさん (テレビアニメ)|サザエさん]]』や『[[ねるとん紅鯨団]]』などの一部の一社提供番組やドラマがローカル枠で実施されるにとどまった。
 
同時に山形県内のFNNの取材はフジテレビが「[[フジテレビ山形支局|山形支局]]」を設置して行うことになった。{{see also|テレビユー山形#YTSネットチェンジからSAY開局まで放送されていたフジテレビ系の番組}}
 
山形県内でフジテレビ系列局設立に関し、1993年夏に「フジテレビ系民放第4局を作る会」を結成し、市民活動を展開していった。街角などでは[[署名運動]]などを行い、その熱意にキー局であるフジテレビのゴーサインが下り開局へとつながった<ref name=hosobunka />。主要株主は[[山形テレビ]]がフジ系時代のスポンサーが並んだ。当時のフジテレビ媒体開発局電波企画部長の矢嶋武弘は、専門誌において「東北ブロックを考えた時に、山形に系列局がないと、ブロックニュースやイベントなどの時不便だという声もあって決断したという側面もあります」さらに、「東北の他県のFNN局は喜んでいると思います」と述べている<ref name=hosobunka>「民放最後のネットワークをめぐるキー・政・財の思惑」『放送文化』 1997年2月号</ref>。
背景には、郵政省(現・[[総務省]])から[[日本の地上デジタルテレビ放送|地上デジタルテレビ放送]]の準備の関係もあり地上アナログ放送の周波数割り当てを[[岩手朝日テレビ]](IAT)で終了するが、1年間は開局申請を受け付ける<ref>1999年4月1日に開局した[[とちぎテレビ]]は、さくらんぼテレビと[[高知さんさんテレビ]]開局後の[[とちぎテレビ#沿革|1997年5月14日設立]]した企業(放送局)だったので、1998年3月ごろまで地上アナログ放送としての開局申請を受け付けていたようである。</ref>という通知が出たことにある(そのため朝日新聞等一部の記述では最後の民放テレビが岩手朝日テレビであることになっている)。また、フジテレビは経営政策として[[高知さんさんテレビ]](KSS)開局で系列局開局を打ち切る予定だったが、この運動と長年に渡り山形県内でフジテレビのネット番組が放送されてきたことから、山形県のフジテレビ系列局の復活を決め、[[1997年]][[4月1日]]、KSSと同じ日に開局<ref name=hosobunka />。
 
本社は、山形市郊外の落合町に建設され、[[ロゴタイプ|ロゴ]]マークは、フジテレビの社名ロゴタイプと同様に[[馬場雄二]]が手掛けた<ref name=hosobunka199907>「新世紀ローカル局の挑戦 さくらんぼテレビジョン--開局2年、実りはじめた若さとノリ 」『放送文化』 1999年7月号</ref>。なお本局は、東北地方の民間放送局([[コミュニティFM|CFM局]]を除く)では最後の開局である。