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'''[[シュメール文学|シュメール伝説]]'''には、[[キシュ]]の王[[エンメバラゲシ]]がエラムを征服し戦利品を獲得したというものがある。また、[[ウルク (メソポタミア)|ウルク]]の王[[エンメルカル]]はエラムに降伏を迫るためにエラムの領主[[エン・スフギル・アナ]]({{lang-en-short|En-suhgir-ana}}、[[エンスフケシュダンナ]] - {{lang|en|Ensuhkeshdanna}})へ使者を送り、エラムを服属させたというもの(『{{仮リンク|エンメルカルとエン・スフギル・アナ|en|Enmerkar and En-suhgir-ana}}』)もある。
 
古エラム時代の'''{{仮リンク|[[アワン|en|Awan dynasty}}]]''' (Awan dynasty) の王は[[シュメール]]を3代に渡って支配したと伝えられる。だがこれらの説話にどの程度史実が含まれているのかは全くわからない。アワン朝の後には{{仮リンク|ハマズィ朝|en|Hamazi}}が再びシュメールを支配したという。この他シュメールの都市国家の中にはその初期にエラムの支配を受けたという伝説を持ったものが少なくない。具体的な政治史の復元は困難ながら、シュメール時代の初期からエラム人がメソポタミアと接触を持っていたことは確実である。
 
飛躍的に情報が増えるのはエラムに侵攻してこれを支配した[[アッカド帝国]]と、その後の[[ウル第3王朝]]時代からである。アワン朝(シュメールを支配したという王朝と同一であるかは不明)最後の王[[クティク・インシュシナク]]はウル第3王朝の創設者[[ウル・ナンム]]と同時代人であったと考えられる。彼は[[スサ]]と[[アンシャン]]を征服して、イラン高原における初の統一的な政治勢力を形成した。しかしアワン朝は間もなくウル第3王朝の[[シュルギ]]王の攻撃を受けて崩壊した。