「神風特別攻撃隊」の版間の差分

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==== 突入 ====
[[ファイル:Japanese Mitsubishi A6M kamikaze plane hits USS Suwannee (CVE-27) on 25 October 1944 (NH 71524).jpg|thumb|250px|菊水隊、朝日隊、山桜隊のいずれかの機が命中した[[護衛空母]]「[[スワニー (護衛空母)|スワニー]]」]]
10月24日に4回目の出撃も失敗に終わった関は司令部に「索敵機の無電を聞いてから出かけても、現地に到着するまでには敵も移動しますし、最悪の場合は雲の中に入ってしまいます。そこで、フィリピン東方海面に進撃したら、索敵しながら南下し、発見次第突入することにしたいと思います」と申し出し了承された。10月25日、午前7時25分、関率いる5機の敷島隊はマバラカット基地から出撃した<ref>{{Harvnb|豊田穣|1980|loc=電子版, 位置No.312}}</ref>。離陸する関は体調不良で衰弱していたが、この日はひとしお異様な厳しさが見えると見送った玉井や指宿は感じていたという。関が出撃した時点で、今まで敵艦載機の空襲で苦闘してきた第一遊撃部隊第一部隊(指揮官[[栗田健男]]第二艦隊司令長官、戦艦「[[大和 (戦艦)|大和]]」座乗、いわゆる「栗田艦隊」)が敵空母群を発見し、「敵空母に対し砲戦開始」という無電を打電しており<ref>{{Harvnb|門司親徳|1978|p=293}}</ref>、それを知っていた一航艦司令部の幕僚たちは、この日こそ関は敵を発見して突入すると感じていた<ref>{{Harvnb|豊田穣|1980|loc=電子版, 位置No.323}}</ref>。また、この25日には、関ら敷島隊の出撃より前の午前6時30分にダバオ基地から菊水隊、朝日隊、山桜隊の4機の零戦も出撃している<ref>{{Harvnb|ウォーナー|1982b|p=295}}</ref>。
 
10月25日6時58分、レイテ突入を目指していた「栗田艦隊」が、サマール島沖で上陸部隊支援を行っていた[[クリフトン・スプレイグ]]少将指揮の第77任務部隊第4群第3集団の護衛空母群(タフィ3)を発見して攻撃を開始した。離れた海域にいた第77任務部隊第4群第1集団(タフィ1)はタフィ3を援護するため航空機の発進準備を行っていたが<ref>{{Harvnb|オネール|1988|p=154}}</ref>、7時40分に菊水隊、朝日隊、山桜隊の4機の零戦がタフィ1上空に到達した。このときにはタフィ1各艦のレーダーには多数の友軍機影が映っていたため、この4機が日本軍機と気づくものはおらず、気づいたときにはそのうちの1機が高度2,500mから40度の角度で護衛空母「[[サンティー (護衛空母)|サンティ]]」に向かって急降下していた<ref>{{Harvnb|冨永|安延|1972|p=20}}</ref>。急降下してきた零戦は舷側から5m内側の飛行甲板に命中して貫通し、飛行甲板下で搭載爆弾が爆発して、42m<sup>2</sup>の大穴を飛行甲板に開けて、16名の戦死者と47名の負傷者を生じさせたが、幸運にも火災が[[航空燃料]]や弾薬に引火することはなかったので致命的な損傷には至らなかった<ref>{{Harvnb|ウォーナー|1982a|p=193}}</ref>。
台湾に転進した大西ら第1航空艦隊は台湾でも特攻を継続し、残存兵力と台湾方面航空隊のわずかな兵力により1945年1月18日に「神風特攻隊新高隊」が編成された。1月21日に台湾に接近してきた第38任務部隊に対し「神風特攻隊新高隊」が出撃、少数であったが正規空母「[[タイコンデロガ (空母)|タイコンデロガ]]」に2機の特攻機が命中し、格納庫の艦載機と搭載していた[[魚雷]]・爆弾が誘爆して沈没も懸念されたほどの深刻な損傷を被り、{{仮リンク|ディクシー・キーファー|en|Dixie Kiefer}}艦長を含む345名の死傷者が生じたが、キーファーが自らも右手が砕かれるなどの大怪我を負いながら、艦橋内にマットレスを敷いて横たわった状態で12時間もの間的確な[[ダメージコントロール]]を指示し続け、沈没は免れた<ref>{{Harvnb|ウォーナー|1982a|p=338}}</ref>。大西はこの頃から沈黙の時間が長くなった代わりに、[[死]]について語ることが多くなった。ある日、[[イタリアの降伏|イタリア]]の[[戦犯]]のニュースの話題になったとき大西は「おれなんか、生きておったならば、絞首刑だな。真珠湾攻撃に参画し、特攻を出して若いものを死なせ、悪いことばかりしてきた」と幕僚たちに述べている<ref>{{Harvnb|草柳大蔵|2006|p=221}}</ref>。
 
1945年2月17日、連合艦隊はアメリカ艦隊を泊地[[ウルシー環礁|ウルシー]]で攻撃する[[丹作戦]]を命令した。攻撃部隊として、[[銀河 (航空機)|銀河]][[陸上攻撃機]]を基幹とする特攻隊を編成し菊水部隊梓特別攻撃隊と命名した。銀河には、それまでの500キロ爆弾1発もしくは250キロ爆弾2発ではなく、魚雷にも匹敵する威力の800kg爆弾が搭載された<ref>{{Harvnb|木俣滋郎|2000|pp=122-123}}</ref>。1945年2月19日には、[[硫黄島]]にアメリカ軍が上陸し、[[硫黄島の戦い]]が始まったが、硫黄島に侵攻してきたアメリカ軍艦隊に対しても特攻が行われた<ref>{{Harvnb|ニミッツ|1962|p=430}}</ref>。[[第六〇一海軍航空隊]]で編成された「第二御盾隊」は、2月21日に、彗星12機、[[天山 (航空機)|天山]]8機、零戦12機の合計32機(内未帰還29機)が出撃し、護衛空母「[[ビスマーク・シー (護衛空母)|ビスマーク・シー]]」を撃沈、正規空母「[[サラトガ (CV-3)|サラトガ]]」に5発の命中弾を与えて大破させた他、{{仮リンク|「キーオカック」(防潜網輸送船) |en|USS Keokuk (CMc-6)}}も大破させ、護衛空母「[[ルンガ・ポイント (護衛空母)|ルンガ・ポイント]]」と{{仮リンク|LST-477 |en|USS LST-477}}を損傷させるなど大戦果を挙げた。第二御盾隊による戦果は硫黄島の[[栗林忠道]]中将率いる[[第109師団 (日本軍)|小笠原兵団]]から視認でき、[[第27航空戦隊]]司令官[[市丸利之助]]少将が「友軍航空機の壮烈なる特攻を望見し、士気ますます高揚、必勝を確信、敢闘を誓う」「必勝を確信敢闘を誓あり」と打電するなど、栗林らを大いに鼓舞した<ref>{{Harvnb|大島隆之|2016|p=|loc=電子版, 位置No.1996}}</ref>。[[梅津美治郎]][[陸軍参謀総長]]と[[及川古志郎]][[軍令部#歴代軍令部総長|軍令部総長]]はこの大戦果を昭和天皇に[[上奏]]した。及川によれば、昭和天皇はこの大戦果の報を聞いて「硫黄島に対する特攻を何とかやれ」と再攻撃を求めたというが、洋上の長距離飛行を要する硫黄島への特攻は負担が大きく、再び実行されることはなかった<ref>{{Harvnb|大島隆之|2016|p=|loc=電子版, 位置No.2006}}</ref>。第二御盾隊の成功の報を台湾で聞いた大西は特攻作戦に対して自信を深めて、この後も特攻を推進していく動機付けともなった<ref>{{Harvnb|ウォーナー|1982a|p=348}}</ref>。
 
=== 全軍特攻 ===
1945年2月中旬、硫黄島が攻略され、敵の[[沖縄戦|沖縄攻略]]も遠くない状況になった。軍令部は、1945年3月に練習連合航空総隊を解体し、その搭乗員教育航空隊をもって[[第十航空艦隊]]を編制して連合艦隊に編入し、練習機をも特攻攻撃に参加させ、全海軍航空部隊の特攻化が企図された<ref>『戦史叢書95巻 海軍航空概史』422頁</ref>。3月11日には、かねてから準備中の丹作戦が実行された。新設されたばかりの[[第五航空艦隊]]司令長官[[宇垣纏]]中将の大きな期待を受けて、24機の新型双発陸上爆撃機銀河で編成された「梓特別攻撃隊」が出撃したが、途中で脱落する機が続出し、1機が正規空母「[[ランドルフ (空母)|ランドルフ]]」に命中したに留まった。銀河はランドルフの飛行甲板後方に命中したため、死傷者は150名以上と人的損害は大きかったが、致命的な損傷には至らなかった <ref>{{Harvnb|戦史叢書93|1976|pp=231-232}}</ref>。
 
3月11日には、長躯、アメリカ軍の後方基地である[[ウルシー環礁]]を攻撃する[[丹作戦]]が計画され、新設されたばかりの[[第五航空艦隊]]司令長官[[宇垣纏]]中将の大きな期待を受けて、24機の新型双発陸上爆撃機「[[銀河 (航空機)|銀河]]」が爆装し「梓特別攻撃隊」と名付けられ出撃したが、途中で脱落する機が続出し、1機が正規空母「[[ランドルフ (空母)|ランドルフ]]」に命中したに留まった。銀河はランドルフの飛行甲板後方に命中したため、死傷者は150名以上と人的損害は大きかったが、致命的な損傷には至らなかった <ref>{{Harvnb|戦史叢書93|1976|pp=231-232}}</ref>。
 
{{main|九州沖航空戦}}
 
== 特攻隊員 ==
[[ファイル:Tokucima siragiku unit.jpg|thumb|270px|right|練習機「白菊」で編成された、神風特別攻撃隊徳島白菊隊の特攻隊員]]
[[ファイル:Nichiei 232 First Kamikaze 02 PDVD 008.JPG|thumb|270px|right|特攻初出撃の日に201空司令代行玉井浅一大佐(後姿)から別杯を受ける特攻隊員(左から関行男、中野磐雄、山下憲行、谷暢夫、塩田寛)]]
=== 志願 ===
特攻隊員の選抜については、大西が軍令部に航空特攻の開始を進言した際に総長の及川より「あくまでも本人の自由意志に基づいてやってください。決して命令はしてくださるな」と念を押されたように、原則は本人の志願に基づくものとされていたとする意見もあるが<ref>{{Harvnb|冨永|安延|1972|p=46}}</ref>、一方で、最初の神風特攻隊「敷島隊」の指揮官となった関の志願を命令に近い打診だったと考え、初めから志願者のみという原則は徹底されていなかったとする意見もある<ref>{{Harvnb|城山三郎|2004|loc=p.445}}</ref>。志願にあたっては「親一人、子一人の者」「長男」「妻子のある者」を除外することとしていたが、これも徹底はされていなかった<ref>{{Harvnb|城山三郎|2004|loc=p.454}}</ref>。
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