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==== 指揮官任命 ====
[[1944年]][[10月17日]]、[[第一航空艦隊]]司令長官に内定した[[大西瀧治郎]]中将が[[マニラ]]に到着した。大西は一航艦長官に内定したときから航空機による特攻開始を考えており、[[米内光政]]海軍大臣や[[及川古志郎]]軍令部総長の了承を取り付けていた<ref>{{Harvnb|冨永|安延|1972|p=46}</ref>。マニラに向かう途中には[[台湾]]にも立ち寄ったが、[[台湾沖航空戦]]の真っ最中で、[[新竹]]で日本軍戦闘機とアメリカ軍戦闘機の[[空中戦]]の様子を見学した。そこで日本軍戦闘機の苦戦ぶりを見て愕然とし、[[多田武雄]]中将に対して「これでは体当たり以外無い」と話している。大西は台湾入りしていた連合艦隊司令長官[[豊田副武]]大将とも面会し「大戦初期のような練度の高い者ならよいが、中には単独飛行がよっとこせという搭乗員が沢山ある、こういう者が[[雷撃]][[爆撃]]をやっても、被害に見合う戦果を期待できない。どうしても体当たり以外に方法はないと思う。しかし、命令では無くそういった[[場の空気|空気]]にならなければ(特攻は)実行できない」と特攻を開始する決意を述べている<ref>{{Harvnb|豊田副武|2017|loc=電子版, 位置No.2203}}</ref>。
[[1944年]][[10月17日]]、[[第一航空艦隊]]司令長官に内定した[[大西瀧治郎]]中将が[[マニラ]]に到着し、前任の[[寺岡謹平]]中将と事務の引継ぎを終えた。18日大西は参謀などから意見聴取して現状把握に努めたが、一航艦の現有兵力のうち、実働機数が約40機程度であることを知る<ref>[[#金子]]pp.30-31</ref>。翌19日には、大西は一航艦司令部で[[第七六一海軍航空隊]]司令・[[前田孝成]]大佐に戦局の説明を行った後、副官の[[門司親徳]]大尉を伴って[[クラーク空軍基地|マバラカット飛行場]]に向かう<ref>[[#金子]]p.36</ref>。夕刻近くに[[マバラカット]]に到着の後<ref>[[#金子]]p.38</ref>、指揮所に二〇一空副長・[[玉井浅一]]中佐、一航艦首席参謀・[[猪口力平]]中佐などを招集し、体当たり攻撃法を披瀝する<ref>[[#金子]]pp.38-41</ref>。大西と入れ違いに[[マニラ]]へ向かい、マバラカットに戻る途中で乗機の不時着により足を骨折して海軍病院に入院した二〇一空司令・[[山本栄]]大佐には、この会合とは別に一航艦参謀長・[[小田原俊彦]]大佐から大西の考える体当たり攻撃法を披瀝され、「副長(玉井)に一任する」との伝言を託していた<ref>[[#金子]]pp.36-37, pp.40-41, pp.62-63</ref>。玉井は体当たり攻撃法に賛成し、戦闘三〇五飛行隊長・[[指宿正信]]大尉も同意したため、「未曾有の攻撃法」たる体当たり攻撃が採用されるに至った<ref name="f">[[#金子]]p.41</ref>。▼
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玉井は大西に、攻撃隊の編成を一任するよう申し出て了承されると<ref name="f"/>、猪口とともに攻撃隊の編成に取り掛かるが、玉井と猪口には大まかながら攻撃隊の編成が出来上がっていた。すなわち、隊員は[[海軍飛行予科練習生|第十期甲種飛行予科練習生]]から選出して、これは玉井が[[第二六三海軍航空隊]]時代から何かと甲十期生の面倒を見て共に戦ってきた背景があり、甲十期生に一花咲かせようという魂胆からだった<ref>[[#金子]]pp.42-46</ref>。二〇一空にいた甲十期生は63名で<ref>[[#金子]]p.42</ref>、体調不良だったり日本へ航空機受領に行っていた者などを除いた33名の中から隊員を選ぶこととした<ref>[[#金子]]pp.45-46</ref>。指揮官は海軍兵学校出身者の士官搭乗員から選ぶもので、これは猪口の提案であった<ref>[[#金子]]p.46</ref>。
猪口
やがて[[カーキ]]色の[[第三種軍装]]を身に着けた関が玉井の部屋を訪れたので、玉井は関に椅子をすゝめ、腰かけた関の肩を抱くようにして「今日大西長官が201空に来られ、捷一号作戦を成功させる為、空母の飛行甲板に体当たりをかけたいという意向を示された。そこで君にその特攻隊長をやってもらいたいんだがどうかね」と<ref>{{Harvnb|豊田穣|1980|loc=電子版, 位置No.85}}</ref>体当たり攻撃隊の指揮官として「[[九頭竜伝承|白羽の矢]]を立てた」ことを告げた<ref name="g">[[#金子]]p.48</ref>。猪口によれば、関は指名された際にその場で熟考の後「ぜひやらせて下さい」と即答したという<ref>戦史叢書56海軍捷号作戦(2)フィリピン沖海戦 p113</ref>。熟考の時間はわずか数秒という証言もあるが<ref>{{Harvnb|豊田穣|1980|loc=電子版, 位置No.88}}</ref>、即答はできずに、「一晩考えさせて下さい」と逡巡したが、玉井がさらに「どうだろう、君が征ってくれるか」と念を押したため、結論を先延ばしすることはできないと決断し、「承知しました」とたった一言で返答したとする証言もある。その際、玉井はほっとし、「頼む、最初は海兵出身が指揮をとるべきだと思う。貴様が一番最初に行ってくれると大助かりだ。全軍の士気の問題だ」関に感謝の言葉を述べたという<ref>{{Harvnb|森史朗|2003b|loc=電子版, 位置No.2029}}</ref>。戦後に玉井が関の慰霊祭に参席した際に、関が「一晩考えさせて下さい」と即答を避けたのち、翌朝になって「引き受けます」と承諾したなどと証言したとも伝えられるが、これは、関が了承したあとの経緯から見ても時系列的に矛盾することが多く、玉井の記憶違いである<ref>{{Harvnb|森史朗|2003b|loc=電子版, 位置No.2039}}</ref>
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==== 出撃開始 ====
神風特別攻撃隊の初出撃は10月21日となった。陸軍の[[一〇〇式司令部偵察機]]が敵機動部隊発見を知らせてきた。敵艦隊発見の報を受けて敷島・朝日・山桜の各隊員が指揮所に移動し、出撃は敷島・朝日の二隊に決定する<ref name="l">[[#金子]]p.86</ref>。この時点から関は敷島隊の隊長も兼任するようになり、敷島隊も[[永峰肇]]飛長(丙種飛行予科練習生15期)が加えられて総勢5名となった<ref name="m">[[#金子]]p.88</ref>。この日、マバラカットから出撃することとなったのは、敷島隊4機と朝日隊3機と護衛戦闘機隊であったが、このうち、谷機はエンジントラブルで発進できなかった
関ら敷島隊はマバラカット東飛行場から発進した朝日隊と合流して敵艦隊を目指すも、天候も悪化して見つけられず、燃料状況から攻撃を断念して[[レガスピ (フィリピン)|レガスピ]]に引き返した<ref>[[#金子]]pp.87-89</ref>帰還した関は報告の際に玉井の前でうなだれるばかりであった。卑怯者と思われたくないとする関の気持ちの表れであったが、玉井はこれをねぎらって宿舎に帰している<ref>{{Harvnb|豊田穣|1980|loc=電子版, 位置No.221}}</ref>。
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* {{Cite book |和書 |author=冨永謙吾 |author2=安延多計夫 |year=1972 |title=神風特攻隊 壮烈な体あたり作戦 |publisher=秋田書店 |asin=B000JBQ7K2 |ref={{SfnRef|冨永|安延|1972}} }}
* {{Cite book |和書 |author=リチャード オネール |others=[[益田 善雄]](訳) |year=1988 |title=特別攻撃隊―神風SUICIDE SQUADS |publisher=霞出版社 |isbn=978-4876022045 |ref={{SfnRef|オネール|1988}} }}
* {{Cite book |和書 |author=[[豊田副武]] |year=2017 |title=最後の帝国海軍 - 軍令部総長の証言 |publisher=中央公論新社 |isbn=978-4122064362 |ref={{SfnRef|豊田副武|2017}}}}
* {{Cite book |和書 |author=[[豊田穣]] |year=1980 |title=海軍特別攻撃隊 特攻戦記 |publisher=集英社 |series=集英社文庫 |asin=B00LG93LIM |ref={{SfnRef|豊田穣|1980}} }}
* {{Cite book |和書 |author=[[深堀道義]] |year=2001 |title=特攻の真実―命令と献身と遺族の心 |publisher=原書房 |isbn=978-4562040957|ref={{SfnRef|深堀道義|2001}}}}
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