「王位請求者」の版間の差分

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{{君主主義}}
[[File:Davidanointed.jpg|thumb|200px150px|[[サウル]]に代わるイスラエル王として血統に関係なく[[ヤハウェ|]]に選ばれ、[[サムエル]]に塗油される[[ダビデ]]([[旧約聖書]])]]
'''王位請求者'''(おういせいきゅうしゃ)は、狭義には[[王|王位]]を実際に請するか、少なくとも潜在的請求権を有すると考えられる者のこと。広義には請求対象が[[皇帝|帝位]]である'''帝位請求者'''など「王位」以外の君主位を求める者を含む。[[共和制|共和国]]において過去に廃止された[[君主]]の復活([[王政復古]])パターンと、一般者もここで取り扱う。歴史正統とされる在位中の君主に取って代わろうと性・貴種性を有する者のみならず、高貴な血統を[[下剋上僭称|詐称]]志向することで君主パターンの二つ座を狙う者や、逆大別でき歴史や血統などによらない請求者も含まれうる。
 
== 概要 ==
[[共和制|共和国]]において過去に廃止された[[君主制]]の復活([[王政復古]])を求めるパターンと、一般的に正統とされる在位中の君主に取って代わろうとする[[下剋上]]志向のパターンの二つに大別できる。
 
英語では「詐称者」といった否定的なニュアンスを帯びる「'''Pretender'''('''プリテンダー''')」と呼ぶことが一般的である<ref group="注釈">このニュアンスで日本語訳すれば「王位[[僭称]]者(おういせんしょうしゃ)」、「王位覬覦者(おういきゆしゃ)」といった表現になる。</ref>。これに対し、イギリスに拠点を置く{{仮リンク|国際君主主義者連盟|en|International Monarchist League}}代表の{{仮リンク|ニコライ・トルストイ|label=ニコライ・トルストイ伯爵|en|Nikolai Tolstoy}}は、中立的用語でないとして「Claimant(主張者、要求者)」や「Heir(相続人、継承者)」の語句が望ましいとしている<ref name=君主主義者のグローバルネットワーク>{{Cite news|url=https://www.vanityfair.com/style/2018/04/global-network-of-monarchists|title=“There’s Nothing Wrong with Falling from Grace”: The Global Network of Monarchists Helping Deposed Kings and Queens|agency=[[ヴァニティ・フェア]]|author={{仮リンク|マイケル・ジョゼフ・グロス|en|Michael Joseph Gross}}|date=2018年4月27日|accessdate=2019年12月9日}}</ref>。
 
== 概要 ==
[[File:Prince James Francis Edward Stuart by Alexis Simon Belle.jpg|thumb|200px|[[イングランド王国|イングランド]]および[[スコットランド王国|スコットランド]]の正統な王として[[ジャコバイト]]に支持された「'''老僭王'''」こと[[ジェームズ・フランシス・エドワード・ステュアート]]。]]
[[File:Infante don Carlos, by Vicente Lopez.JPG|thumb|200px|[[カルリスタ王位請求者の一覧|スペイン王家の正統]]として「'''カルロス5世'''」を称した[[カルロス・マリア・イシドロ・デ・ボルボーン|モリナ伯ドン・カルロス]]。]]
[[File:Miguel I o REi.jpg|thumb|200px|[[ミゲル1世 (ポルトガル王)|ポルトガル王ミゲル1世]]とその子孫は、{{仮リンク|ミゲリスタ|en|Miguelist}}によって支持された。]]
実際に君主制の復活を求める者に限らず、世が世なら玉座に即いていたであろう旧君主家の当主は、その全てが王位請求者に数えられる。現在、王位請求者とされる人物には、一般人として生活している者も多いが、中には君主制の復活を求めて[[亡命政府]]や政治団体などを組織して活動している者もいる。(王位請求者とされる人物の意思にかかわらず)彼らを奉じて君主制を再導入しようとする君主主義組織・政治団体も各国に存在する<ref group="注釈">オーストリアの[[シュヴァルツ=ゲルベ・アリアンツ]]、ポーランドの[[保守王党派クラブ]]、{{仮リンク|チェコ・コルナ (政党)|label=チェコ・コルナ|cs|Koruna Česká (monarchistická strana Čech, Moravy a Slezska)}}など。</ref>。
 
[[キリスト教]]の歴史において時として存在した[[対立教皇]]についても、同じように[[教皇|教皇位]]の請求者とみなすことができよう。
 
== 出現要因 ==
[[File:Prince James Francis Edward Stuart by Alexis Simon Belle.jpg|thumb|200px150px|[[イングランド王国|イングランド]]および[[スコットランド王国|スコットランド]]の正統な王として[[ジャコバイト]]に支持された「'''老僭王'''」こと[[ジェームズ・フランシス・エドワード・ステュアート]]。]]
[[File:Infante don Carlos, by Vicente Lopez.JPG|thumb|200px150px|[[カルリスタ王位請求者の一覧|スペイン王家の正統]]として「'''カルロス5世'''」を称した[[カルロス・マリア・イシドロ・デ・ボルボーン|モリナ伯ドン・カルロス]]。]]
[[File:Miguel I o REi.jpg|thumb|200px150px|[[ミゲル1世 (ポルトガル王)|ポルトガル王ミゲル1世]]とその子孫は、{{仮リンク|ミゲリスタ|en|Miguelist}}によって支持された。]]
王位請求者が現れる理由としては、主として次のようなケースが考えられる。
;君主国において、それまでの王統・皇統の断絶に際して、旧王朝と血縁関係や姻戚関係にある者が請求するケース
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:例2:[[カール7世 (神聖ローマ皇帝)|バイエルン選帝侯カール・アルブレヒト]]
::[[ハプスブルク|オーストリア・ハプスブルク家]]の男系男子が断絶した際に、妻がハプスブルク家出身であることを理由として[[神聖ローマ皇帝|神聖ローマ帝位]]や[[ボヘミア王冠領|ボヘミア王位]]を要求した。(⇒[[オーストリア継承戦争]])
:この場合、[[落胤]]を称したり生存説を唱えたりする、実際の貴種性が疑わしい請求者が出現することもままある。具体例として、[[リューリク朝]]の断絶後に皇位僭称者が次々と現れた[[動乱時代]]のロシアが挙げられよう。
 
;簒奪や宮廷クーデター、革命による旧王朝もしくは君主制の廃絶や、他国の支配により国自体が滅ぼされるなどして廃位された君主本人やその子孫などが請求するケース
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:例2:[[ナポレオン3世|フランス皇帝ナポレオン3世]]
::[[フランス皇帝]]として正式に即位するまでは、[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン1世]]の一族としてフランス帝位請求者であった。[[フランス第三共和政|第三共和政]]の樹立とともに廃位されて以降は、また帝位請求者となった。
:この場合、実際の貴種性が疑わしい請求者が出現することもままある。[[フランス革命]]後のヨーロッパでは、革命の犠牲となった[[ルイ17世|ルイ王太子(ルイ17世)]]であると自称する男が100人以上も現れた<ref name=100人の詐欺師が主張した理由>{{Cite news|url=https://www.history.com/news/louis-xvii-death-marie-antoinette-french-revolution|title=Why 100 Imposters Claimed to Be Marie Antoinette’s Dead Son|agency=[[ヒストリーチャンネル]]|author=Hadley Meares|date=2018年11月30日|accessdate=2020年1月10日}}</ref>。類例として、[[太平洋戦争]]後の日本において林立した自称天皇たち(その多くが、[[両統迭立]]の約束を反故にされたあげく[[北朝 (日本)|北朝]]に皇位を「簒奪」された[[後南朝]]の後裔を称した)が挙げられよう。
 
;伝統的継承法変更されたことにより継嗣の座を奪われた元相続人が、これを認めずに自らの歴史的正統性を主張するケース
:例1:[[カルロス・マリア・イシドロ・デ・ボルボーン|モリナ伯カルロス]]
::[[フェルナンド7世 (スペイン王)|スペイン国王フェルナンド7世]]の王太弟だったが、王位継承法の変更により女王が認められたため、相続人の座を[[イサベル2世 (スペイン女王)|姪イサベル]]に奪われた。これを不服として、兄王の崩御後に正当な国王「カルロス5世」であることを宣言した。(⇒[[カルリスタ戦争]])
 
;継承権を放棄したはずの者やその子孫が、継承権放棄宣言をのちに撤回して自らの正統性を主張するケース
:例1:[[ペドロ・デ・アルカンタラ・デ・オルレアンス・エ・ブラガンサ]]
::ブラジル皇族。名目上の女帝[[イザベル・ド・ブラジル]]の長男だったが、[[貴賤結婚]]のために皇位継承権を放棄した。母はペドロに代わって[[ルイス・マリア・デ・オルレアンス・エ・ブラガンサ|その弟]]を継承者としたが、のちにペドロは継承権を放棄していないと主張し、ブラジル帝室の分裂を招いた。(⇒ペトロポリス系とヴァソウラス系)
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;継承権を持ちながらも順位が低い者、継承権を持たない庶子、高貴な血統とは無関係な一般人などが請求するケース
[[キュリロス (スラヴの(亜)使徒)|聖キリル]]は、『[[旧約聖書]]』の中で[[サウル]]との血縁関係を持たない[[ダビデ]]がイスラエル王になっていることを根拠に、神による選択は正当性の根拠として血縁関係よりも優位にあるとした{{sfn|ビリアルスキ(2016)|p=161}}。
:例1:[[ミゲル1世 (ポルトガル王)|ポルトガル王ミゲル1世]]
::自由主義者(立憲主義者)に支持される姪・女王[[マリア2世 (ポルトガル女王)|マリア2世]]を認めず、[[絶対王政]]の復活を掲げ、[[ポルトガル内戦]]を引き起こした。(⇒{{仮リンク|ミゲリスタ|en|Miguelist}})
:例2:[[ヨーゼフ・アウグスト・フォン・エスターライヒ]]
::[[ハプスブルク=ロートリンゲン家]]の中でも継承順位の低い皇族であったが、ハンガリーに深く根を下ろしていたことから、[[オーストリア=ハンガリー帝国]]崩壊後に誕生した[[ハンガリー王国 (1920年-1946年)|ハンガリー王国]]において、存命だった[[カール1世 (オーストリア皇帝)|最後のハンガリー国王カーロイ4世]]などを差し置いて新たなハンガリー国王に擁立された。
:[[キュリロス (スラヴの(亜)使徒)|聖キリル]]は、『[[旧約聖書]]』の中で[[サウル]]との血縁関係を持たない[[ダビデ]]がイスラエル王になっていることを根拠に、神による選択は正当性の根拠として血縁関係よりも優位にあるとした{{sfn|ビリアルスキ(2016)|p=161}}。
 
== 現在の王位請求者の一覧 ==
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|| {{IRQ1924}}
|| {{仮リンク|ラド・イブン・ザイド|en|Prince Ra'ad bin Zeid}}
|| [[File:CoatPrince ofRa'ad armsbin of the Kingdom of IraqZeid.svgjpg|150px]]
|| 初代国王[[ファイサル1世 (イラク王)|ファイサル1世]]の弟{{仮リンク|ザイド・イブン・フサイン|en|Prince Zeid bin Hussein}}の長男にあたる。息子[[ザイド・ラード・アル・フセイン]]は国際連合人権高等弁務官所|国連人権高等弁務官]]{{仮リンク|ザイド・イブン・ラアド|en|Prince Zeid bin Ra'ad|label=ザイド・フセイン}}がいるめた
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|| {{IRQ1924}}
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|| {{仮リンク|ヌグザル・バグラチオン・グルジンスキ|en|Nugzar Bagration-Gruzinsky}}
|| [[File:Prince Nugzar of Georgia.jpg|150px]]
|| {{仮リンク|バグラティオニ朝|label=バグラティオニ家|en|Bagrationi dynasty}}の宗家(=第1王統)にあたる{{仮リンク|グルジンスキ家|en|Gruzinsky}}の当主。グルジンスキ家は共産主義政権のもとで断絶したと考えられていたが、[[ソ連崩壊]]後になって存続していたことが判明し、分家・ムフラニ家(=第2王統)との競合状態になった。ヌグザルは娘の{{仮リンク|アンナ・バグラチオン・グルジンスキ|en|Anna Bagration-Gruzinsky}}をムフラニ家の当主ダヴィッドと結婚させた。両王統の合同が期待されていたが、ダヴィッドとアンナ夫妻は2013年に離婚した。しかし夫妻の間には男子が誕生している
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|| [[File:Flag of the Kingdom of Sarawak (1870).svg|25x20px]] [[サラワク王国]]
134 ⟶ 139行目:
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|| [[File:Flag of the Alaungpaya Dynasty of Myanmar.svg|25x20px]] [[コンバウン王朝|ビルマ王国]]
|| {{仮リンク|[[ソー・ウィン (ビルマ王子)|label=ソー・ウィン|en|Soe Win (prince)}}]]
|| [[File:U Soe Win.jpg|150px]]
|| 最後の国王[[ティーボー]]の孫。
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|| [[File:Flag of the Empire of Vietnam (1945).svg|25x20px]] [[ベトナム帝国]]
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|| {{仮リンク|イブラヒム・ファリド・ディディ|en|Ibrahim Fareed Didi}}
|| [[File:Sin foto.svg|150px]]
|| 第94代にして最後のスルターンである[[ムハンマド・ファリド・ディディ]]の甥。
||
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|| {{LAO1949}}
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|| {{flagicon|LTU}} [[リトアニア王国 (1918年)|リトアニア王国]]
|| [[ヴィルヘルム・アルベルト (ウラッハ公)|ウラッハ公ヴィルヘルム・アルベルト]]
|| [[File:Sin foto.svg|150px]]
|| 1918年に[[リトアニア王国 (1918年)|リトアニア王国]]の王に選出された[[ミンダウガス2世]]の孫。[[ウラッハ家]]当主であり、理論上はリトアニア王位継承権の筆頭保持者であると考えられる。
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|| {{flagicon|LTU}} [[リトアニア王国 (1918年)|リトアニア王国]]
|| [[イニゴ・フォン・ウラッハ]]
|| [[File:Sin foto.svg|150px]]
|| 1918年に[[リトアニア王国 (1918年)|リトアニア王国]]の王に選出された[[ミンダウガス2世]]の孫。リトアニア語を話せることなどの条件から、兄のウラッハ公[[ヴィルヘルム・アルベルト (ウラッハ公)|ヴィルヘルム・アルベルト・フォン・ヴュルテンベルク]]に優先して王党派組織「の弟。リトアニア王室協会」愛国者であり、君主主義者たち選ばれ、受諾よって兄を差リトアニア置いて国位請求者候補なっして推戴された<ref name=準備ができている>[{{Cite news|url=https://www.delfi.lt/archive/mindaugo-ii-anukas-jei-lietuviai-panores-atgaivinti-monarchija-esu-pasirenges-priimti-sia-garbe.d?id=61409369|title=Jo Mindaugošviesybė IIprincas anūkas:Inigo jeivon lietuviaiUrachas, panorėsUracho atgaivintikunigaikštis, monarchijąWürttembergo grafas ir paskutinio Lietuvos karaliaus – Mindaugo II – anūkas, esuyra pasirengęslegitimus priimtipretendentas šiąį garbę]Lietuvos sostą.|agency={{仮リンク|Delfi|lt|Delfi}}|author=|date=2013年5月19日|accessdate=2020年1月10日}}</ref>。
|}
 
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=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
 
== 参考文献 ==