「ヘレニズム」の版間の差分

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{{ギリシャの歴史}}
[[File:Macedonia and the Aegean World c.200.png|thumb|400px|紀元前200年ごろのエーゲ海周辺の地図。{{legend|#ee9c10|[[アンティゴノス朝]]([[マケドニア王国]])}}{{legend|#FFFF99|マケドニア王国衛星国}}{{legend|#FFFF33|[[セレウコス朝|セレウコス朝シリア]]}}{{legend|#338833|ローマ保護国}}{{legend|#88CC88|[[アッタロス朝|アッタロス朝ペルガモン]]}}{{legend|#c0bbc3|独立国}}{{legend|#8F008F|[[プトレマイオス朝|プトレマイオス朝エジプト王国]]}}]]
'''ヘレニズム'''('''Hellenism''')とは、[[ギリシア人]](ヘレネス)の祖、[[ヘレーン]]に由来する語。その用法は様々であり、アレクサンドロスの東方遠征によって生じた古代オリエントとギリシアの文化が融合した「ギリシア風」の文化を指すこともあれば、時代区分として[[アレクサンドロス3世]](大王)(在位[[紀元前336年|前336年]] - [[紀元前323年|前323年]])の治世から[[プトレマイオス朝|プトレマイオス朝エジプト王国]]が滅亡するまでの約300年間を指すこともある。また、[[ヨーロッパ]]文明の源流となる2つの要素として、[[ヘブライズム]]と対置してヘレニズムが示される場合もある。この場合のヘレニズムは'''[[古典古代]]'''の文化(ギリシア・ローマの文化)におけるギリシア的要素を指す。
 
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広大な帝国を築き上げたのちアレクサンドロスが死ぬと、その版図はアレクサンドロスの部下達によって争奪・分割された。これら、およびさらにそこから派生した諸国をヘレニズム諸国という。
 
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*[[アンティゴノス朝|アンティゴノス朝マケドニア王国]]
*[[セレウコス朝|セレウコス朝シリア王国]]
**[[アッタロス朝|アッタロス朝ペルガモン王国]]
**[[グレコ・バクトリア王国]]
***[[インド・グリーク朝|グリーク朝インド王国]]
*[[プトレマイオス朝|プトレマイオス朝エジプト王国]]
 
これらの国は東地中海からオリエント地域を支配し、ギリシア風の「ヘレニズム文化」を維持・発展させたが、次第に[[共和政ローマ]]が東へ進出することで滅ぼされ、ついに[[紀元前30年]]、最後のヘレニズム王朝であったプトレマイオス朝エジプトがローマに併合された。このことによって、ヘレニズム時代は終わったとされる。
 
しかし、その後も文化的にはギリシアはローマを圧倒し続けた。[[ギリシア語]]は東地中海地域の[[共通語]]として使われ、ヘレニズム文化が栄えた。また、ローマ帝国分裂後も7世紀以降の[[東ローマ帝国]]では支配地域・住民がギリシャ語圏となったためにヘレニズムの伝統が重視され、[[キリスト教]]と融合した「[[ビザンティン文化]]」を生むことになった。
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=== ヨーロッパ文明の源流 ===