「神風特別攻撃隊」の版間の差分

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同年[[10月19日]]、大西は[[マニラ]]艦隊司令部に[[クラーク空軍基地]]の761空司令[[前田孝成]]大佐、飛行長[[庄司八郎]]少佐と、[[マバラカット]]基地の201空司令[[山本栄]]中佐、飛行長[[中島正]]少佐を呼び出し、司令部内にて特攻の相談を行おうとしたが、前田・庄司は司令部に到着して相談できたものの、山本・中島は、午後の攻撃隊の出撃を見送ったのちに、車でマニラを目指したため到着が遅れ、大西は何かあったと心配して自らマバラカットに出向くことにし、すれ違いとなった<ref>{{Harvnb|戦史叢書56|1972|p=111}}</ref>。すれ違いとなった山本は、マニラ東部の[[二コルス]]基地に出向き、中島の操縦する零戦の胴体にが乗り込んでマバラカット基地を目指したものの、中島が操縦する零戦は発動機が故障し、水田の中に不時着してしまった。2人は通りかかった陸軍の[[トラック]]に救助されたが、中島は顔面に軽傷を負っただけで済んだものの、山本は左足を[[骨折]]していた<ref>{{Harvnb|門司親徳|1978|p=280}}</ref>。山本は再びマニラの司令部に戻ると、[[軍医]]の応急手当を受けながらすぐに[[小田原俊彦]]参謀長に電話をし、小田原から今日の大西の要件が特攻開始の打診で会ったことを聞くと、「当隊は長官のご意見とまったく同一であるから、マバラカットに残っている([[玉井浅一]])副長とよくお打ち合わせくださるよう」と大西に伝えて貰うよう依頼している<ref>{{Harvnb|猪口|中島|1951|loc=電子版, 位置No.874}}</ref>。
=== 創設 ===
[[ファイル:Lt Yukio Seki in flightgearseki.jpg|thumb|300px200px|関行男大尉(戦死後、中佐へ2階級特進)]]
1944年(昭和19年)10月19日夕刻、マバラカット飛行場第201海軍航空隊本部で大西、201空副長[[玉井浅一]]中佐、一航艦首席参謀猪口、二十六航空戦隊参謀兼一航艦参謀[[吉岡忠一]]中佐が集合し、特攻隊編成に関する会議を開いた。大西は「空母を一週間くらい使用不能にし、[[捷一号作戦]]を成功させるため、零戦に250kg爆弾を抱かせて体当りをやるほかに確実な攻撃法は無いと思うがどうだろう」と提案した<ref>{{Harvnb|冨永|安延|1972|p=47}}</ref>。一同は、爆弾の効果としては、飛行機と一緒に突っ込ませるよりも、高い高度から投下した方が破壊力は大きいという理解であったが、もはや通常の爆撃法には期待はもてないのであれば、威力は多少減殺しても確実に命中できる方法(体当り)をとるべきという認識は共有できたものの、すぐに結論をだすことはできなかった<ref>{{Harvnb|戦史叢書56|1972|p=111}}</ref>。これに対して玉井はまず吉岡に、「零戦に250キロ爆弾を積んで体当りをやってどのくらい効果があるものだろうか?」と尋ねたところ、吉岡は、「空母の飛行甲板を破壊し発着艦を阻止すること位は出来ると思います」と答えている<ref>{{Harvnb|豊田穣|1980|loc=電子版, 位置No.32}}</ref>。その答えを聞いた玉井は、司令の山本が不在だったために「ご主旨はよくわかりましたが、201空から特攻隊の搭乗員を出すということになると、司令や飛行長の意向も計らねばなりません」と返答したが、大西は押し通すように「司令たちはマニラに呼んだが、一向に着かない。今は副長の意向を司令の意向と考えたいがどうか」と特攻を決行するかは玉井に一任した<ref>{{Harvnb|豊田穣|1980|loc=電子版, 位置No.41}}</ref>。玉井は時間をもらい、飛行隊長指宿正信大尉・横山岳夫大尉と相談した結果、体当たり攻撃を決意して大西にその旨を伝えたが、その際に特攻隊の編成は航空隊側に一任して欲しいと大西に要望し、大西はそれを許可した<ref>{{Harvnb|冨永|安延|1972|p=50}}</ref>。
 
玉井は戦後の回想で、大西の特攻に対する決意と必要性を説明した後に志願を募ると、皆が喜びの感激に目をキラキラさせて全員が挙手して志願したと話している<ref>{{Harvnb|戦史叢書56|1972|p=112}}</ref>。しかし、志願した山桜隊・[[高橋保男]]によれば「もろ手を挙げて(特攻に)志願した。意気高揚<ref>森史朗『特攻とは何か』(文春新書)105-107頁</ref>」、同じく志願者の[[井上武]]によれば「中央は特攻に消極的だったため、現場には不平不満があり、やる気が失せていた。現場では体当たり攻撃するくらいじゃないとだめと考えていた。志願は親しんだ上官の玉井だったからこそ抵抗なかった」という<ref>御田重宝『特攻』(講談社)15-16頁</ref>。一方で、志願者の中には特攻の話を聞かされて一同が黙り込む中、玉井が「行くのか?行かんのか?」と叫んだことで一同の手がすぐに上がったと証言する者もおり<ref>森史朗『特攻とは何か』(文春新書)87-88頁</ref>、志願した[[浜崎勇]]は「仕方なくしぶしぶ手をあげた<ref>渡辺大助『特攻 絶望の海に出撃せよ』([[新人物往来社]])36頁</ref>」、[[佐伯美津男]]は「強制ではないと説明された。零戦を100機近く失った201空の責任上の戦法で後に広がるとは思わなかった」と話している<ref>零戦搭乗員会編『零戦、かく戦えり!』(文芸春秋)307-308頁</ref>。
 
猪口は、郷里の古剣術の道場である「神風(しんぷう)流」から名前を取り、特攻隊の名称を神風特別攻撃というのはどうだろう」と提案し、玉井も「神風を起こさなければならない」と同意して大西がそれを認めた。また大西は、各隊に[[本居宣長]]の[[和歌]]「[[敷島]]の [[大和心]]を 人問わば 朝日に匂ふ 山桜花」から敷島隊・大和隊・朝日隊・山桜隊と命名した<ref>猪口力平・中島正『神風特別攻撃隊の記録』(雪華社)45頁</ref>。しかし、大西がフィリピンに出発する前に、軍令部で航空特攻開始について参謀の源田と打ち合わせした際には「神風攻撃隊」との特攻隊全体の名称と、敷島、朝日隊等の部隊名は既に決まっており、その隊名に基づいて大海機密第261917番電も作成されていたため、「神風特別攻撃隊」の実際の命名者は誰であるのか判然としない<ref>{{Harvnb|戦史叢書56|1972|p=108}}</ref>。
 
1944年(昭和19年)10月20日朝、マバラカットにいた大西が副官の門司と朝食をとっていると玉井がやってきて「揃いました」と報告してきた。大西らが宿舎の中庭に出ると20数名の搭乗員が整列しており、右の先頭に関が立っていた。整列した特攻隊員の前には木箱が置いてあり、大西は木箱の上に立つと午前10時に特攻隊員に向けて訓示を行った<ref>{{Harvnb|門司親徳|1978|p=282}}</ref>。
 
この夜に、報道班員の[[同盟通信]]記者[[小野田政]]は、入院していた201空司令の山本の許可をとって、関を取材すべくマバラカットの基地に向かった。関と小野田はバンバン川の河原の砂利石の上に腰を下ろしたが、関は二人きりになったところを見計らって「報道班員、日本はもうおしまいだよ。ぼくのような優秀なパイロットを殺すなんて。ぼくなら体当りせずとも敵母艦の飛行甲板に50番(500kg爆弾)を命中させる自信がある」、[[艦上爆撃機]]出身者らしい関の自信にあふれた言葉ではあったが、関には一度も急降下爆撃の実戦は経験していなかった<ref>{{Harvnb|森史朗|2003b|loc=電子版, 位置No.2423}}</ref>。関はさらに「ぼくは天皇陛下とか日本帝国のためとかで行くんじゃない。最愛のKA(海軍用語で妻のこと)のために行くんだ。命令とあればやむを得ない。ぼくは彼女を護るために死ぬんだ。最愛の者のために死ぬ。どうだ素晴らしいだろう」と冗談めいた口調で言い切った。201空に着任以来、艦爆出身のよそ者で本心を打ち明ける同僚もなく、隊では孤立ぎみであった関は、同じくよそ者の記者の小野田に一気に心の鬱積を解き放ったかのようであった。さらに関は小野田を前にして、胸ポケットに大事にしまっていた新妻満里子の写真を見せびらかすと、その美しさを褒め、茶目っ気たっぷりに写真にキスしてみせるなど戯けて見せた。最後に関は一緒に出撃する他の特攻隊員らのことを慮って「ぼくは短い人生だったが、とにかく幸福だった。しかし若い搭乗員はエスプレイ(芸者遊び)もしなければ、女も知らないで死んでいく・・・」と話している<ref>{{Harvnb|森史朗|2003b|loc=電子版, 位置No.2434}}</ref>。
[[File:Captain Seki and Sikishima Corps zeroes.jpg|right|330px|thumb|1944年8月21日、初出撃する敷島隊]]
 
神風特別攻撃隊の初出撃は10月21日となった。陸軍の[[一〇〇式司令部偵察機]]が敵機動部隊発見を知らせてきたため、この日、マバラカットからは敷島隊4機と朝日隊3機と護衛戦闘機隊が出撃することとなった。玉井は昨日大西が残していった副官門司の水筒を取り出すと、昨日と同様に一人一人に別れの水を注ぎ、自ら音頭をとって「[[海ゆかば]]」を合唱した。玉井は関らに「攻撃目標の第一は空母、まず大型、中型、小型の順に狙え。ついで[[戦艦]]、[[巡洋艦]]、[[駆逐艦]]の順だ」「突入高度は3,000m、低空で進入し、事前に高度をとり、切り返してつっこめ」と徹底した<ref>{{Harvnb|森史朗|2003b|loc=電子版, 位置No.2563}}</ref>。関は熱帯性の下痢を患って、治療中で絶食しており無精ひげも伸び放題であったが、この日は朝から「今日、ぶつかりにゆくんですよ、顔くらいきれいにして行きたいと思ってね」と[[軍医]]の[[副島泰然]]大尉に髭剃りを依頼し、さっぱりしていた。初めて特攻のことを聞いた副島は、絶食中の関に少しでも力がつくようにと、[[虎屋]]の丸筒[[羊羹]]を差し入れている<ref>{{Harvnb|豊田穣|1980|loc=電子版, 位置No.291}}</ref>。やがて玉井から出撃が下命されると、関は玉井の前に立ち「只今より出発します」と決然と挨拶し、紙に包んだ関以下特攻隊員全員の[[遺髪]]を「副長、お願いします」と言って手渡した<ref>{{Harvnb|豊田穣|1980|loc=電子版, 位置No.301}}</ref>。午前8時に関率いる敷島隊と朝日隊は、司令部や整備員たちの「帽振れ」に送られて離陸したが<ref>{{Harvnb|豊田穣|1980|loc=電子版, 位置No.221}}</ref>、このときの光景を昨日大西と関らの「決別の水杯」のシーンを撮影した稲垣が撮影しており、後日、8月20日の撮影分と合成して一連の出撃シーンとして[[日本ニュース]]で放映された<ref>{{Harvnb|森史朗|2003b|loc=電子版, 位置No.2335}}</ref>。関らは悪天候で敵艦隊を発見することができず全機帰還したが、関は報告の際に玉井の前でうなだれるばかりであった。卑怯者と思われたくないとする関の気持ちの表れであったが、玉井はこれをねぎらって宿舎に帰している<ref>{{Harvnb|豊田穣|1980|loc=電子版, 位置No.221}}</ref>。
 
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