「司馬顒」の版間の差分

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8月、都督幽州諸軍事[[王浚]]は東嬴公[[司馬騰]]と連携を取り合い、司馬穎討伐を掲げて決起した。司馬穎は大いに恐れ、鄴を放棄すると恵帝を連れて洛陽へ逃走した。張方は兵を派遣して司馬穎一行を迎え入れた。
 
11月、張方は恵帝と司馬穎を引き連れて長安への遷都を強行した。司馬顒は官属や歩騎三万を率いて長安を出て、灞上において一行を出迎えた。司馬顒は恵帝に拝礼しようとしたが、恵帝は車から下りてそれを止めさせた。恵帝が長安に入ると、司馬顒府が行宮(皇帝の住まう場所)となり、司馬顒は百官を選んで配置し、秦州を[[定州]]と改めた。だが、洛陽では尚書僕射[[荀藩]]・司隷校尉[[劉暾]]・河南尹[[周馥 (西晋)|周馥]]が留まって皇帝の代わって政治を行ったので、これにより政治機能は二つに分裂し、洛陽朝廷は「東台」と呼ばれ、長安朝廷は「西台」と呼ばれるようになった。
 
12月、司馬顒は皇太弟司馬穎を廃し、豫章王[[懐帝 (西晋)|司馬熾]](後の懐帝)を新たに皇太弟に立てた。また、司馬顒は戦禍を収める為に司馬越との和解を望み、彼を[[太傅]]として長安に招聘したが、司馬越はこれを受けなかった。暫くして詔が下り、司馬顒は都督中外諸軍事に任じられた。
 
==== 皇甫重討伐 ====
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劉弘は恵帝へ上書し、司馬顒と司馬越を和解させるよう勧めたが、司馬顒は劉喬の力を信じていたので、これに応じずに抗戦を続けた。劉弘は張方の暴虐な様を見て司馬顒の敗亡は必至であると判断し、諸軍を率いて司馬越の傘下に入った。
 
11月、司馬顒は偽の詔を発し、皇后[[羊献容]]がしばしば政治利用されているという理由で自殺を命じ、尚書[[田淑]]を洛陽に派遣して命を伝えた。だが、司校尉劉暾らが反対したので、結局果たされなかった。
 
12月、劉琨と司馬虓は王浚と結託し、幽州突騎300を率いて河橋を攻めた。王闡はこれを迎え撃つも敗れて殺され、敗残兵は張方がかつて築いた砦に逃げ込んだ。更に劉琨は司馬虓と共に黄河を渡り、滎陽で石超を討ち取った。これにより、劉喬は考城から撤退した。さらに司馬虓は劉琨と督護[[田徽]]を東進させ、司馬楙を廩丘で撃ち、司馬楙は封国に撤退した。劉琨らはさらに東進を続けて司馬越を迎え入れると、譙県で[[劉祐]]を破って殺した。劉喬軍も壊滅し、平氏へ逃走した。司馬越は陽武に進駐し、王浚は将軍[[祁弘]]に鮮卑突騎と烏桓突騎を率いさせて司馬越軍を援護した。