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| Died = {{死亡年月日と没年齢|1933|5|3|2006|12|25}}<br/>{{USA}}、ジョージア州[[アトランタ]]
| Origin = {{USA}}、[[ジョージア州]][[オーガスタ (ジョージア州)|オーガスタ]]
| Instrument = [[ヴォーカル]]、キーボード
| Genre = [[リズム・アンド・ブルース|R&B]]<br/>[[ソウルミュージック|ソウル]]<br/>[[ファンク]]<br/>[[ブルース]]<br/>[[ゴスペル (音楽)|ゴスペル]]
| Occupation = [[ソウルミュージック]][[歌手|シンガー]]<br />[[音楽プロデューサー]]<br />[[作曲家]]
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* [[:en:Lyn Collins|リン・コリンズ]](Lyn Collins) - ボーカル
72年にはファンクの傑作「ゲット・オン・ザ・グッド・フット」を発表した。73年、74年はやや勢いが弱まるが「ペイバック」「ファンキー・プレジデント」「マイ・サング」など、まずまずの作品を発表した。[[1974年]]には、ブラウンはアフリカで公演している。アフリカの[[ザイール]](現[[コンゴ民主共和国]])の首都のキンシャサで、ボクシング世界ヘビー級タイトルマッチが行われた。挑戦者[[モハメド・アリ]]<ref>ベトナム徴兵拒否のため、一度王座をはく奪された</ref>と王者[[ジョージ・フォアマン]]が対戦し、「世紀の一戦」「[[キンシャサの奇跡]]」と謳われた。この試合をプロモートした[[ドン・キング]]が同時に開催した[[アフリカのウッドストック]]と宣伝された音楽フェスティバルに、ブラウンが出演した。この模様は、映画『モハメド・アリ かけがえのない日々』や映画『ソウル・パワー』で観ることができる。この時期、JBファンクの影響を受けたクール&ギャング、BTエクスプレス、オハイオ・プレイヤーズらファンクの新興勢力が登場し、ブラウンはやや押され気味になった。
その後、1975年頃から起こった「[[ディスコ]]・ブーム」とともに、彼の人気は下降線をたどる。ブラウンのサウンドは、ディスコ・サウンドの中のファンキーな部分のオリジナルであるにも関わらず、皮肉にもディスコ・ブームに乗ることは出来なかった。76年の『''Get Up Offa That Thing''』や77年の『''Bodyheat''』などのヒットもあるが、70年代後半はブラウンのセールスは低調で冬の時代を迎えた。しかし79年の「イッツ・トゥー・ファンキー・イン・ヒア」を含むアルバム「オリジナル・ディスコ・マン」は、佳作として後に評価されている。
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=== 1990年代 ===
[[1991年]][[2月27日]]、6年の判決に対して3年弱の服役で釈放された。この年には 4-CD セットの "[[:en:Star Time|Star Time]]" を発表、この頃よりブラウンは、その功績を称えられ、いくつかの名誉ある音楽関連の賞を受賞している。91年6月10日には「ジェームス・ブラウン リヴィング・イン・アメリカ ライブ」が開催された。出演者はアイスT、クール・モー・ディー、ヘビーD、アン・ヴォーグ、MCハマー、C&Cミュージック・ファクトリー、ベル・ビブ・デヴォー、クインシー・ジョーンズらだった。
[[1992年]]2月25日、ブラウンは第34回[[グラミー賞]]特別功労賞を受賞している。その1年後には第4回リズム&ブルース財団賞特別功労賞を受賞した。また、[[1993年]]11月11日にオーガスタ市長のチャールズ・ディヴァニーは、オーガスタ9番街を「ジェイムズ・ブラウン大通り ''James Brown Boulevard''」と改名し記念式典を行った。また、C&Cミュージック・ファクトリーと,
ソウルIIソウルのジャジーBがプロデュースを担当した新作アルバム「ユニバーサル・ジェームス」も発表され
=== 2000年代 ===
[[Image:James_Brown_2001.jpg|200px|thumb|2001年に行われたNBAオールスターゲーム・ジャムセッションにて]]
[[2003年]]6月24日、ハリウッドのコダック・シアターで行われた第3回BET(ブラック・エンターテインメント・テレビジョン)アウォードに招かれる。ここでは[[マイケル・ジャクソン]]が飛び入りで参加したが、この共演は約20年ぶりのことであった。その後、マイケルは「ここにいるこの人物ほど、僕に大きな影響を与えた人はいない」とスピーチし、自らの音楽とダンスの師匠であるブラウンに生涯功労賞を手渡した。同年にはケネディセンター賞も受賞した。2004年の曲「ガット・バケット」は、モージョー・マガジンのコンピレーションCDに収録された<ref>{{cite web|url=http://www.charles-thomson.net/worldfunk.html |title=Portfolio – Features |publisher=Charles Thomson |date= |accessdate=February 12, 2014 |url-status=dead |archiveurl=https://web.archive.org/web/20131105032344/http://www.charles-thomson.net/worldfunk.html |archivedate=January 14 2020}}</ref>。
[[2004年]]12月に、ブラウンは前立腺癌と診断され手術を受け
[[2005年]]5月6日、ブラウンの72度目の誕生日にオーガスタ市は7フィートのブロンズ像を贈呈した。像は本来その1年前に送られる予定であったが、その当時ブラウンが直面していた家庭内暴力事件のため、延期された。2005年7月6日には''[[LIVE 8]]''の''Edinburgh 50,000 - The Final Push''に出演し、イギリスの歌手[[ウィル・ヤング]]と「''Papa's Got A Brand New Bag''」をデュエットした。また、その1週間前には[[ジョス・ストーン]]と「''Friday Night with Jonathan Ross''」に出演し、デュエットを行っている。
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== エピソード ==
* [[マイケル・ジャクソン]]とプリンスは、ジェームス・ブラウンから大きな影響を受けている<ref>http://blackmusicscholar.com/the-influence-of-the-century/</ref>
*ブラウンのコンサートで、客席にいたマイケル・ジャクソンとプリンスが
▲* グッチ裕三は、ジェームス・ブラウンの大ファンでJBの音楽ソフトは全て持ってる、と豪語している。他にドン勝本もJBの大ファンだった。
* 2000年には、[[サマーソニック]]に出演のために来日。初日の東京公演では押していた進行の中、ブラウンは時間から遅れて登場し、持ち時間をオーバーして歌い続けた。しかし、次に控えていた大トリは[[ジョン・スペンサー・ブルース・エクスプロージョン]]だった。数分後、ステージに戻ってきたブラウンは何事も無かったように歌い続けた。2日目の大阪公演でも同じように時間をオーバーしても歌い続けた。なお、この演奏により2日続けて演奏時間を大幅に短縮されてしまったジョン・スペンサーはブラウンを尊敬しているため、それほど怒ってはいないという。▼
▲客席にいたマイケルとプリンスが、ステージに飛び入り参加したことがある。先ずマイケルがステージに呼ばれ、彼独特の歌唱と踊りを披露し、観客から喝采を浴びた。そして、プリンスも同会場にいる事を知ったブラウンは、ステージからプリンスを呼んだ。客席の奥からセキュリティに背負われながら登場したプリンスは、J.B'sからギターを渡されるもまともに演奏が出来ず、さらに興奮状態のままフラフラとしながら寄りかかった照明器具を倒しつつ、客席に戻った。
▲* 2000年には、[[サマーソニック]]に出演のために来日。初日の東京公演では押していた進行の中、時間から遅れて登場し、持ち時間をオーバーして歌い続けた。しかし、次に控えていた大トリは[[ジョン・スペンサー・ブルース・エクスプロージョン]]だった。数分後、ステージに戻ってきたブラウンは何事も無かったように歌い続けた。2日目の大阪公演でも同じように時間をオーバーしても歌い続けた。なお、この演奏により2日続けて演奏時間を大幅に短縮されてしまったジョン・スペンサーはブラウンを尊敬しているため、それほど怒ってはいないという。
▲1992年、日本のカップ麺のCMに出演。「セックス・マシーン」の「ゲロッパ(ゲロンパ)!」を「ミソンパ!」と歌うというパロディだった。<ref>「歌い分けがミソ『セックス・マシーン'93』 『ミソンパ!』の掛け声」『日経MJ|日経流通新聞』1993年3月2日付、23頁</ref>。
<!--*スパイク・リーがJBをテーマとした新作映画の準備にはいった。JB伝説はまだまだ続く。将来のことなのでコメントアウトで-->
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