「ブレイクダンス」の版間の差分

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脚注
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=== 世界のブレイクダンス ===
アメリカでは、ロック・ステディ・クルーのメンバーも、ファブ・ファイブ・スレディ、ビッグ・ダディ・ケインもBボーイという用語を使用し、ブレイクダンスの普及に貢献した<ref>Edwards, Paul, 2009, How to Rap: The Art & Science of the Hip-Hop MC, Chicago Review Press, p. 302</ref>。またNYC.BREAKERSなどがメディアで活躍しアメリカ国内でブームを巻き起こすも、ブームは去ってブレイクダンスのブームは80年代後半には下火になってしまったこの間だが、80年代にはブレイクダンスはヨーロッパや日本にも伝わり人気を得ることになる。1990年にはドイツで世界大会Battle of the Yearが開催されるまでになり、アメリカでも人気を盛り返す。90年代、現在のブレイクダンスの基礎を築いたRock Steady CrewのPrince Kenswiftの影響を色濃く受けたアメリカのSTYLE ELEMENTSはブレイクダンスを一つ上のレベルまで押し上げたと言われ、現在のシーンにも多大な影響を与えている。
 
2000年代に入り、斬新なダンスを見せるB-Boyがフランスなどのヨーロッパ諸国や、韓国から次々と登場した。特に[[韓国]]の代表チームが世界の中でも実力が特出しており、著名な世界大会のタイトルを次々と獲得し、一躍世界で確固たる地位を築いている。こうした活躍により韓国ではブレイクダンスが国内文化メジャーな存在になりつつあり、プロとして活躍しているダンサーも多く、政府までが支援に乗り出している。また[[プーマ]]や[[FILA]]のような大企業がスポンサーを務めていることもある。さらにイベント会場もクラブのようなアンダーグラウンドな場所ではなく、一般のホールなどを借りて行われることが多い。
 
その他の地域でもシーンの広がりはめざましく、北アメリカ、ヨーロッパ以外にも、東アジア、東南アジア、西アジア、アフリカ、オセアニア、南米など、はてはロシアのチームが2008年の著名な世界大会で準優勝するなど、B-boy B-girlは世界中に存在するといっても過言ではない。現に[[Battle of the Year|BOTY]]参加国は年々増加している。
 
2000年代はBattle of the YearUK Bboy ChampionshipsFreestyle Sessionが世界三大大会と称されていたが、直近ではRed Bull BC OneR16 KoreaWorld Bboy ClassicIBE等、世界規模の大会が開催され、メディアへの露出機会も飛躍的に増えた為、世界規模のシーン拡大に幅広く貢献している。
 
=== 構成 ===
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* '''フリーズ'''…フットワークやパワームーブの一連の流れの中から音に合わせて体、動きを固めて止めること。代表的なものに、''チェアー''、''マックス''、''アローバック''などがある。起承転結で言えば結の部分。
 
フットワークを中心に踊る人をスタイラー、パワームーブを中心に踊る人をパワームーバーと呼ぶが、最近ではそういったものに分類されない多彩なダンススタイルある。
 
=== ダンスバトル ===
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現在ではバトルイベントとしてオーガナイズされたものが中心であり、音楽を流す[[ディスクジョッキー|DJ]]、その場をしきる[[司会|MC]]、勝敗を決めるジャッジがおり、個々のダンサー、あるいはクルーがフロアの左右に分かれ、その間のフロアでお互いがダンスを披露する。それぞれのクルーが交互に踊らなければいけない、相手に触れてはいけないというのが暗黙の了解であり、基本的にそれ以外のルールは存在しない。
 
バトル中のダンサーは極度の興奮状態にあることが多く、熱くなりすぎるあまり罵り合いになり、暴言が飛び交うことも日常茶飯事で、ときには両チーム入り乱れての乱闘になってしまうこともある。そうした場をうまく治めるのもMCの役割の一つである。
 
またDJの選曲は、ダンサーのテンションやバトルの流れに大きな影響を及ぼすので、DJの実力が試される場でもある。勝敗は全てジャッジの裁量に委ねられるが、基準となるものはなく、どこに重点をおいて評価するかはそれぞれのジャッジにより異なる。そのためバトルイベントのジャッジはかならず複数いる。
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ブレイクダンスの進化に伴って(上半身の動きが多くなり)それほどだぶだぶでない服装が一般的になってきた。プーマやトライバル(TRIBAL)などブレイクダンスを支援するブランドもある。これらは多くのブレイクダンスイベントも後援している。
 
== 日本のシーン ==
1983年に映画「[[ワイルド・スタイル]]」で来日した『ロックステディクルー([[:w:Rock Steady Crew]])』が日本にブレイクダンスを紹介した。それまではほとんどメディアに紹介される事はなかったが、西武デパートの記念イベント<ref>[http://funkyjam.jp/report.html 日本のヒップホップはここから始まった]</ref><ref>[http://www.webdice.jp/dice/detail/4674/ 1983年『ワイルド・スタイル』初公開の熱気と「文化の衝突」―葛井克亮さんとフラン・クズイさん語る]</ref>としてテレビの11PMで放映した<ref>[https://twitter.com/isoberyo/status/582858339794579456 twitter 磯部涼 2015年3月31日]</ref>。その時の放映で『ファンキージャム<ref>[http://funkyjam.jp/ ファンキージャム]</ref>』がエレクトリックブギを教えていることが紹介される。ファンキージャム・ブレーカーズが誕生し、日本各地でショーをしたことで広く知られる事となる<ref>[http://funkyjam.xyz/st6.html ファンキージャム・ブレーカーズの結成]</ref>。1984年11月には、風見慎吾が楽曲『涙のtake a chance』を発売し、テレビを通じて一般にも知られるようになった<ref name="asahi170526"/><ref name="news-postseven"/><ref name="redbull"/>。ストリートで練習する若者が増え現在に至っている<ref name="asahi170526"/><ref name="news-postseven"/><ref name="oricon"/><ref name="redbull"/><ref name="sponichi"/>。
 
しかし公共の場である駅やビル前で大音量で音楽を流したり、道を塞いだり、ゴミを散らかして帰ったりするモラルを欠いたダンサーも多く現れ、そうしたダンサーの為にダンス禁止といった看板が掲げられている場所が増加傾向にある。また[[B系]]といった誤用が示すように、日本ではヒップホップファッションがいわゆる不良少年のファッションと誤解される場合もあり、一般の人からはダンサーも不良と同一視されがちである。日本のタレントではtrfのSAMや[[ナインティナイン]]の[[岡村隆史]]らがブレイクダンスを得意としているが、黒人の模倣との見方もある。
 
2005年以降はネット上で世界中から動画を集めて更新するサイトが登場し、若年層における新規参入者の増加に貢献した。代表的なサイトは[http://blog.livedoor.jp/haruka5671/ 激走ぶろぐ]、[http://breakdancejapan.com/ BREAK DANCE JAPAN ]、[http://breakdance.hatenablog.com/ Breakin' Cypher ]がある。しかし、ネットでは饒舌であるがバトルにも行ったことがない、大したスキルを持っていない人を[[ネットブレイカー]]と呼ばれた。2013年からはETVをはじめとしてテレビのダンス番組が増え、更に若い層の新規参入に貢献している。
 
The Floorriorz、[[MORTAL COMBAT]]、ARIYAなどのチームがある。キッズブレイクダンサーの活躍も顕著で、Bガールのダンス・レベルも高い。日本のブレイクダンスシーンには年齢性別問わず、幅広い層が存在する。
 
== テクニック ==
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また、地域による技名の違いもある。例えば、以下のギャラリーにある「ジョーダン」([[ナイキ]]の[[バスケットシューズ]]、『[[エア・ジョーダン]]』のロゴからという説が有力)というフリーズは、日本以外ではパイク(pike、槍の意)と呼ばれることが多い。更に、日本では足や手の形によって技の名称が異なることが多いが、海外では総称して1つの技名で呼ばれることが多い。
 
<gallery>
Image:120843583 e22b153125 o.jpg|ヘッドスタンド
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Image:Bumbershoot 2007 breakdancer 01.jpg|ハンドスタンド・プッシュアップ
</gallery>
 
== 日本のシーン ==
1983年に映画「[[ワイルド・スタイル]]」で来日した『ロックステディクルー([[:w:Rock Steady Crew]])』が日本にブレイクダンスを紹介した。それまではほとんどメディアに紹介される事はなかったが、西武デパートの記念イベント<ref>[http://funkyjam.jp/report.html 日本のヒップホップはここから始まった]</ref><ref>[http://www.webdice.jp/dice/detail/4674/ 1983年『ワイルド・スタイル』初公開の熱気と「文化の衝突」―葛井克亮さんとフラン・クズイさん語る]</ref>としてテレビの11PMで放映した<ref>[https://twitter.com/isoberyo/status/582858339794579456 twitter 磯部涼 2015年3月31日]</ref>。その時の放映で『ファンキージャム<ref>[http://funkyjam.jp/ ファンキージャム]</ref>』がエレクトリックブギを教えていることが紹介される。ファンキージャム・ブレーカーズが誕生し、日本各地でショーをしたことで広く知られる事となる<ref>[http://funkyjam.xyz/st6.html ファンキージャム・ブレーカーズの結成]</ref>。1984年11月には、風見慎吾が楽曲『涙のtake a chance』を発売し、テレビを通じて一般にも知られるようになった<ref name="asahi170526"/><ref name="news-postseven"/><ref name="redbull"/>。ストリートで練習する若者が増え現在に至っている<ref name="asahi170526"/><ref name="news-postseven"/><ref name="oricon"/><ref name="redbull"/><ref name="sponichi"/>。
 
しかし公共の場である駅やビル前で大音量で音楽を流したり、道を塞いだり、ゴミを散らかして帰ったりするモラルを欠いたダンサーも多く現れ、そうしたダンサーの為にダンス禁止といった看板が掲げられている場所が増加傾向にある。また[[B系]]といった誤用が示すように、日本ではヒップホップファッションがいわゆる不良少年のファッションと誤解される場合もあり、一般の人からはダンサーも不良と同一視されがちである。日本のタレントではtrfのSAMや[[ナインティナイン]]の[[岡村隆史]]らがブレイクダンスを得意としているが、黒人の模倣との見方もある。
 
2005年以降はネット上で世界中から動画を集めて更新するサイトが登場し、若年層における新規参入者の増加に貢献した。代表的なサイトは[http://blog.livedoor.jp/haruka5671/ 激走ぶろぐ]、[http://breakdancejapan.com/ BREAK DANCE JAPAN ]、[http://breakdance.hatenablog.com/ Breakin' Cypher ]がある。しかし、ネットでは饒舌であるがバトルにも行ったことがない、大したスキルを持っていない人を[[ネットブレイカー]]と呼ばれた。2013年からはETVをはじめとしてテレビのダンス番組が増え、更に若い層の新規参入に貢献している。
 
The Floorriorz、[[MORTAL COMBAT]]、ARIYAなどのチームがある。キッズブレイクダンサーの活躍も顕著で、Bガールのダンス・レベルも高い。日本のブレイクダンスシーンには年齢性別問わず、幅広い層が存在する。
 
== 外部リンク ==