「獅子てんや・瀬戸わんや」の版間の差分

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文部乱 (会話 | 投稿記録)
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無断借用された獅子文六は「獅子となのるのは乱暴だ」と思っていた<ref>『おしまいのページで』(文藝春秋)に収録の「てんや君とわんや君」</ref>。なお、のちの1967年ごろに、てんや・わんやの二人が、獅子文六の家に「無断借用のおわび」に来たことがあったという<ref>『おしまいのページで』(文藝春秋)に収録の「てんや君とわんや君」</ref>。
 
[[1952年、大塚駅 (東京都)|大塚駅]]前[[神明神社|天祖神社]]の夏祭りで初舞台を踏み、[[ドサ回り]]で習練を積んだ。
 
[[1956年]](昭和31年)[[産業経済新聞社|産経新聞社]]主催若手漫才コンクールに[[国定忠治]]の出し物で一位、翌年の第1回[[NHK新人演芸大賞|NHK新人漫才コンクール]]にも「世界旅行をかえりみて」というネタで優勝し、並居る若手漫才の中で図抜ける。新作に取り組む姿勢は積極的で、その中から「ひよこと卵」「なんで行ったの」などの定番ネタが磨かれた。
 
1961年7月26日、[[牧野周一]]等と共に小樽を巡業中、自動車事故で、てんやは全治3週間の大怪我、わんやは全治2ヶ月の重傷を負った。
 
1963年、『[[大正テレビ寄席]]』の準レギュラーとして活躍。山下武からその品格のある芸を高く評価された。
 
[[1966年]](昭和41年)から約14年間放送された[[TBSテレビ|TBS]]『[[家族そろって歌合戦]]』の[[司会]]でも全国的人気を博した他、[[1967年]](昭和42年)に第7回[[日本放送作家協会]]大衆芸能賞受賞、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]放送演芸大賞も二度受賞し、テレビ・ラジオで重宝がられる。
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正月席などハレの場では、[[鼓]]・[[扇]]を持ち[[三河万歳]]を陽気に披露していた。「外れ」のない安定感は抜群で、下卑た話題を避け芸が綺麗なことから東京[[演芸]]界中とりわけ優等生的な地位に就き、関西の[[夢路いとし・喜味こいし|いとし・こいし]]と双璧とする評もあったが、コンビ時代の末期以降、仲は決して良くなかったとされる。地方公演の移動では、別行動をとり、宿泊では、てんやはホテルで洋室に、わんやは日本旅館に和室が常であった。
 
わんやが糖尿病など健康面に不安を抱えた[[19701980年代]]中頃から、思うような反応を見せられないわんやに対し、てん記憶力が落ちセリフ所作を誤ること客前で苛立度々あった表情を露にするようになり、それに対し<ref name=":0">{{Cite web|title=獅子んや・瀬戸わんやがふて腐るなど、|url=https://tokyomanzai0408.com/archives/2060|website=tokyomanzai0408.com|date=2019-12-31|accessdate=2020-01-14|language=ja|last=喜利彦山人}}</ref>。稽古不足も相俟って晩年の舞台は荒れて行ったともいわれたが、コンビ仲が悪化するほどではなかったという<ref name=":0" />。[[1987年]](昭和62年)遂にわんやが病に脳梗塞で倒れ活動休止。臨時で拝啓介(美田夕刊)とコンビを組みその後は「巷談」と称して舞台に立ったが、助言や本人の思う所があり、間もなく辞めた<ref name=":0" />。1993年わんやがそのまま復帰叶わず亡くなり、コンビも消滅した。
 
2009年には[[東京漫才の殿堂]]に選出される。
 
== メンバー ==
'''獅子てんや'''(しし てんや、[[1924年]](大正13年)[[6月25日]] - [[2014年]]頃<ref name=":0" />
:[[東京府]][[荏原郡]][[平塚村]](現・[[東京都]][[品川区]])[[下蛇窪]]生まれ、本名:佐々木 久雄(ささき ひさお)。ボケ役。
:[[1937年]]に高等小学校を中退し、[[東京市]][[芝区]][[三田 (東京都港区)|三田]](現・[[港区 (東京都)|港区]]三田)の電機製品工場に就職。徴用で[[豊島区]][[池袋]]の軍需工場に移り、[[1943年]]、19歳で海軍に応召。追浜・霞ケ浦の[[海軍飛行予科練習生|予科練]]で敗戦を迎える。間もなく[[警視庁]]に採用され、[[原宿警察署]]・[[丸の内警察署]]の巡査を経て、[[1950年]]の[[国家警察予備隊]]([[自衛隊]]の前身)の発足と共に分隊長に昇進。しかし、[[柔道]]訓練中の怪我で療養中にラジオから流れる漫才に心奪われた。退院後、柳家金語楼や榎本健一に弟子入り志願をするが、断られ、当時人気絶頂の[[内海突破]]に[[警察手帳]]を示して1週間通い続け、根負けした師匠から弟子入りを許されたというが真偽は不明であ<ref name=":0" />。わんやの活動休止後、1990年、菩提寺で授戒、「徳菴宗光居士」と法名を得た。相方わんやの死後は芸能界から退き、妻の勧めで[[在家仏教協会]]に入会、講演活動を行った。弟子の昭和のいるによると2014年頃に亡くなったとのことである<ref name=":0" />
 
'''瀬戸わんや'''(せと わんや、[[1926年]](大正15年)[[3月10日]] - [[1993年]](平成5年)[[2月10日]])