「別府昭郎」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
→‎著書: 内容追加
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集
→‎来歴: 内容追加。
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集 改良版モバイル編集
2行目:
 
==来歴==
[[宮崎県]][[小林市]]生まれ。1968年[[広島大学]]教育学部教育学科卒業の後、1973年3月広島大学大学院教育学研究科博士課程(西洋教育史)で単位修得退学。1973年4月[[明治大学]]文学部助手。1975年専任講師、助教授を経て、1989年4月に文学部(教職課程)教授。1982-1983年[[ミュンヘン大学]]留学。学外においては、広島大学大学教育研究センター客員研究員、[[日本女子大学]]人間社会学部非常勤講師、[[名古屋大学]]大学院教育学研究科非常勤講師、[[上智大学]]文学部非常勤講師を歴任、学内においては、明治大学二部教務部長(現・副学長)、教職課程主任、明治大学大学史資料センター所長、[[明治大学体育会サッカー部]]部長(2002年〜2016年)を歴任。1999年「ドイツにおける大学教師の職階制成立史研究」で広島大[[教育学博士]]。2016年退職。名誉教授には推薦されなかった。また、[[齋藤孝 (教育学者)|齋藤孝]]が明治大学教職課程に応募してきたときの面接員でもあった。<ref>週刊文春2002年5月23日号「阿川佐和子のこの人に会いたい」pp.58-62
なお、当該面接に関しては他ならぬ齋藤孝本人によって以下のような証言がなされていることから、面接官らの正常な判断力に基づいて採用に至ったものと考えることができない。
「齋藤 教授が七、八人並んでる前で、僕はたまらない集中力出しましたよ。異常な迫力。ひと言訊かれたら、十五分ぐらいまくし立てまくし立てて、相手の脳味噌を壊してしまった(笑)。」</ref> サッカー日本代表の[[長友佑都]]の指導も行った(サッカー部部長時代に同部に在籍していただけである。)自称[[左翼]]かつ[[共和主義者]]だが、[[友敵]]で他者を分割し敵と見なした者を右とラベリングするなど右を無条件に悪いものとしている知的怠惰が顕著であり、リベラルどころか文化左翼ですらない<ref>『大学教授の職業倫理』『もうそうろく』</ref> 。
 
==著書==