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{{otheruses|地理的・歴史的・文化的概念の東洋}}
'''東洋'''(とうよう、{{lang-en-short|the East, Orient}})とは、[[西洋]](the West)の対
▲'''東洋'''(とうよう、{{lang-en-short|the East, Orient}})とは、[[西洋]](the West)の対立概念であり、指し示す範囲はその文脈や使われる国や地域によって異なる。
== 概要 ==
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宗教的な見地からは、東洋を[[仏教]]・[[ヒンドゥー教]]地域と定義し、[[アブラハムの宗教]]([[キリスト教]]・イスラム教・[[ユダヤ教]])化した地域と対比させることもある。ここでは、[[インドネシア]](イスラム教国)や[[フィリピン]](キリスト教国)などの位置づけが問題になる。
[[File:Sancai Tuhui World Map.jpg|thumb|300px|山海輿地全圖(1607年頃)小東洋、小西洋、大東洋、大西洋の記述が見られる。{{see also|坤輿万国全図}}坤輿万国全図は詳しい中国語の地図で、カナがふられている。]]▼
17世紀の中国には東洋列国、西洋列国という表現が存在した<ref name="sato" />。しかし、単に東洋と西洋という場合は海域を東西に分けた呼称にすぎない<ref name="sato" />。
坪井九馬三や高桑駒吉の研究によると、東洋や西洋の表現はもともと中国人の考えた四海の一つである南海の航路およびその航路上に存在する諸国を、泉州あるいは広州を通過する南北子午線によって分けたものである<ref name="sato" />。
[[14世紀]]半ばの中国の文献には[[ブルネイ]]以東を東洋、[[インドシナ半島]]から[[インド]]へかけてを西洋と記述していた<ref>kotobank [https://kotobank.jp/word/%E8%A5%BF%E6%B4%8B-546549 「西洋」] </ref>。張燮は1616年の『東西洋考』で「文莱即婆羅國、東洋盡處、西洋所自起也」と記し、婆羅國つまりブルネイ(文莱)で東洋は終わり、そこから西洋が始まるとする<ref name="sato" />。
▲[[File:Sancai Tuhui World Map.jpg|thumb|300px|山海輿地全圖(1607年頃)小東洋、小西洋、大東洋、大西洋の記述が見られる。{{see also|坤輿万国全図}}坤輿万国全図は詳しい中国語の地図で、カナがふられている。]]
1602年のイタリア人のイエズス会士マテオ・リッチの世界地図『坤輿万国全図』は世界の地理名称をすべて漢語に翻訳したものであるが、この地図では日本の東北沖とカムチャッカ半島の南沖に「小東洋」という記述があり、カリフォルニア沖に「大東洋」という記述がある<ref name="sato" />。
現代中国では東洋は東アジアを意味する場合もあるが主に日本を指す<ref>kotobank ブリタニカ国際大百科事典 [https://kotobank.jp/word/%E6%9D%B1%E6%B4%8B-104278#E4.B8.96.E7.95.8C.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.20.E7.AC.AC.EF.BC.92.E7.89.88 「東洋」] </ref>。
=== 江戸時代 ===
マテオ・リッチの世界地図『坤輿万国全図』は17世紀はじめに日本に伝来し、この『坤輿万国全図』を参考に日本国内でも多くの世界地図が作成された<ref name="sato" />。しかし、日本で作成された世界地図では海域を示す東洋・西洋が抜け落ちており、日本では17世紀末まで東洋や西洋のように世界地図の海域に名前を付けるというものの考え方は生まれなかったといわれる<ref name="sato" />。
1698年頃に書かれた[[渋川春海]]の『世界図』では北太平洋に小東洋、アメリカ大陸の東の海上に大東洋と記されており、これ以後は東洋や西洋の海域呼称が多くの世界地図で使われ始めた<ref name="sato" />。
幕末になるとパシフィック・オーシャン(Pacific ocean)とアトランチック・オーシャン(Atlantic ocean)という英語表現が幕末に日本に入ってきた<ref name="sato" />。もともと海域を示す言葉だった東洋と西洋だが、大東洋や小東洋という呼称は幕末以降には世界地図の上から消滅した<ref name="sato" />。
=== 明治時代 ===
中国では明の時代に、台湾・[[琉球]]・日本にかけての海を小東洋と呼んでおり、日本では中世から近世にかけて知識人の間では[[東シナ海]]の東の島国という意味で、日本の事を東海、東洋と呼んでいた。[[明治維新]]後は[[脱亜入欧|脱亜・欧米化]]の動き中で、欧州視点の[[アジア]]・[[オリエント]]の概念が導入され、オリエントの訳に東洋が充てられ、西洋(欧州)の対義語としてアジア全域を示すようになった<ref>kotobank 世界大百科事典 [https://kotobank.jp/word/%E6%9D%B1%E6%B4%8B-104278#E4.B8.96.E7.95.8C.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.20.E7.AC.AC.EF.BC.92.E7.89.88 「東洋」] </ref>。▼
江戸時代には海域の呼称を除いて「東洋」はほとんど用いられなかったのに対し、「西洋」はヨーロッパの地理や文化を紹介する出版物で実体概念として用いられていた<ref name="sato" />。[[1715年]]の[[新井白石]]の『[[西洋紀聞]]』は西洋という言葉を実体概念としてはじめて使った書物とされている<ref name="sato" />。
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▲== 日本における「東洋」 ==
1894年(明治27年)には那珂通世が中等学校の外国史を西洋史と東洋史に分けて教授することを提唱するなど、日本における歴史研究では東洋史・西洋史・国史の三分野に分けるシステムが用いられるようになった<ref name="sato" />。
▲== 中国における「東洋」 ==
== 脚注 ==
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