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== 略歴==
鄭道伝の故郷である[[忠清北道]]の[[丹陽郡]]には彼の出生にまつわる話が伝わっている。父である鄭云敬は[[忠粛王]]の治世に任官してからいろんな地方官を受け持った官僚で、[[1359年]]には刑部尚書に任命された。鄭道伝の故郷である[[忠清北道]]の[[丹陽郡]]には彼の出生にまつわる話が伝わっている。伝説によれば、鄭云敬は占い師に10年後に結婚をすれば生まれた子は宰相になるであろうと予言された。鄭云敬はその予言を信じて10年間[[金剛山 (朝鮮)|金剛山]]で修養をした。そして家に戻る途中、にわかに雨に降られ、島潭三峰の草庵に止宿した。其処で禹氏の少女に出会い、鄭云敬はその少女を娶った。そして生まれたのが道伝であるという。
 
=== 朝鮮建国の功臣 ===
父の友[[李穡]]を師として学問を学んだ。[[1360年]][[科挙]]に合格して[[1363年]]官吏となるが、[[1375年]]、権臣[[李仁任]]などの親元反明の政策に反対したために流刑に処される。流刑生活の中、[[孟子]]の影響を受けたとされる。[[1377年]]、流刑生活が終わって学問研究と教育に携り、[[13881383年]][[李成桂]](のちの太祖)の幕僚となる。この時東北面(現代の[[咸鏡道]])の李成桂を訪れ、彼の軍勢を見て「見事な軍勢でございます。さぞどんな事をも成し遂げられましょう」と言った。驚いた李成桂が「そのどんな事とは?」と聞くと、道伝は知らぬふりをして「東南の倭寇を撃つ事にございます」と答えた。<ref>『太祖実録 14卷』</ref>
 
[[威化島回軍]]翌年の[[1389年]][[王昌 (高麗王)|昌王]]を廃して[[恭譲王]]を擁立すると功臣として封ぜられるが、[[1391年]]再び流刑に処された。[[1392年]]釈放されるが、その年4月に李成桂が遊猟中に落馬して負傷するという事件が起こった。うしろだてである李成桂が療養中のすきに[[鄭夢周]]などが「家風が不浄で家系が不確かだ」(鄭道伝の母は[[奴婢]]と『朝鮮王朝実録』に書かれている)と弾劾して、3度流刑に処された。李芳遠(のちの[[太宗 (朝鮮王)|太宗]])が鄭夢周を暗殺すると釈放されて、その年[[7月17日_(旧暦)|7月17日]]李成桂を王に推戴した。
 
=== 権力の頂点から逆賊へ ===