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== 略歴==
=== 朝鮮建国の功臣 ===
父の友[[李穡]]を師として学問を学んだ。[[1360年]][[科挙]]に合格して[[1363年]]官吏となるが、[[1375年]]、権臣[[李仁任]]などの親元反明の政策に反対したために流刑に処される。流刑生活の中、[[孟子]]の影響を受けたとされる。[[1377年]]、流刑生活が終わって学問研究と教育に携り、[[
[[威化島回軍]]翌年の[[1389年]]、[[王昌 (高麗王)|昌王]]を廃して[[恭譲王]]を擁立すると功臣として封ぜられるが、[[1391年]]再び流刑に処された。[[1392年]]釈放されるが、その年4月に李成桂が遊猟中に落馬して負傷するという事件が起こった。うしろだてである李成桂が療養中のすきに[[鄭夢周]]などが「家風が不浄で家系が不確かだ」(鄭道伝の母は[[奴婢]]と『朝鮮王朝実録』に書かれている)と弾劾して、3度流刑に処された。李芳遠(のちの[[太宗 (朝鮮王)|太宗]])が鄭夢周を暗殺すると釈放されて、その年[[7月17日_(旧暦)|7月17日]]李成桂を王に推戴した。
=== 権力の頂点から逆賊へ ===
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