「スーパーカセットビジョン」の版間の差分

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たしかに当時コロコロでも特集されないなど状況的に理解できなくも無いのですが、余程明らかなことでない限り、出典なしに「思われる」と言えないのがWikipediaの辛いところです。なお「かなり」については大言壮語の観点から除去したものです。
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そのため、ファミコンブーム(テレビゲームブーム)下でゲーム雑誌が乱立した時期にも関わらず、本機関連記事が取り上げられる雑誌は『[[ゲーマガ#Beep|Beep!]]』([[ソフトバンク]]刊)と『[[ゲームボーイ_(ゲーム雑誌)|ゲームボーイ]]』(マガジンボックス刊)の2誌のみだった。なお、『Beep』誌には特定店でリサーチした毎月のソフト売り上げランキングが毎号掲載されており、『ドラゴンボール ドラゴン大秘境』は発売後、ほぼ不動の一位を守り続けた。
 
本機はファミコンよりも1年ほど新しい機種でありながらファミコンよりも全体的な性能がかなり低く{{独自研究範囲|発売当初から対等に勝負出来るとは思われていなかった|date=2020年1月}}ただ、当時の同価格帯とかしては次点クラスの性能ではあり、ファミコンが品薄のときに代用品として僅かではあるが売上を伸ばしていった<ref name="famitsu" />。ただし、それもまだカセットのROM容量が少なくてシンプルなファミコンソフトしか無かったような頃の話である<ref group="注" name="rom" />。発売から1年以上経過した1985年後半になると業界に大きな動きが訪れる。ファミコンでは500万本以上を売り上げ社会現象を発生させ、決定的なキラーソフトとなった[[スーパーマリオブラザーズ]]が登場して急速にシェアが拡大。さらに本機とともに業界2番手を競っていたセガからはファミコンに匹敵する高性能機[[セガ・マークIII]]が登場したためスーパーカセットビジョンは劣勢に立たされた。
 
エポック社も巻き返し策として
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なども行ったが、功を奏したとは言えず、この時点でシェア争いからの脱落は確定的となった。
 
しかし当時すでに任天堂・セガ・エポック社以外の競合機種はほぼ展開を終了していたこともあり、その後も本機は業界3番手として1987年を迎える頃まで地道な展開が続けられた。最終的なタイトル数は30本に及び、展開期間で平均すれば実に毎月1本のペースで新作ソフトが発売されたことになる。これは単一のメーカーの実績としては少ないものではないが、積極的なサードパーティー戦略をとった任天堂や、豊富なアーケード資産を抱えていたセガには及ばなかった。結果的にソフトの質<ref group="注" name="rom">もっとも本機が発売された1984年夏時点ではファミコンソフトもまだ3面程度のループゲームだったり、背景が真っ黒だったり、プレイ中のBGMが無いようなタイトルが売れ筋だった時代であり、当時の競合機として本機はそこそこ妥当なスペックではあった。しかしその後はすぐにROM容量の増大とともに本機では追従できないくらい急速にファミコンソフトの質が高まっていった。</ref>と量の両面でファミコンに及ばなかったことや、旧機種との互換性を無くしたことで既存のユーザーを移行できなかったことが敗因と見る向きもある<ref>{{Cite web|url=https://pc.watch.impress.co.jp/docs/news/1108868.html|title=世界の遊びを変えた国産ゲーム機進化の歴史 ~ファミコンから初代プレステまで|publisher= PC Watch|date=2018-02-28|accessdate=2019-11-09}}</ref>。
 
エポック社は1986年末<ref name="complete" /><!--p.56-->にゲーム市場から一時撤退、以降ソフト交換式の家庭用ハードは開発・発売していない。その後1989年12月15日発売の『[[ファミコン野球盤]]』でファミリーコンピュータのサードパーティーとして参入し、ゲームソフトメーカーとなった。