「ニコラウス・コペルニクス」の版間の差分

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=== 地動説の発表と死 ===
[[1529年]]ごろからコペルニクスは地動説についての論考をまとめ始め、推敲と加筆を繰り返していたが、これを出版するつもりは全くなかった。しかしコペルニクスの考えは友人たちを通じてこのころにはかなり知られるようになっており、[[1533年]]には教皇[[クレメンス7世 (ローマ教皇)|クレメンス7世]]にこの考えが伝えられている。[[1535年]]にはヴァポフスキがコペルニクスの元を訪れ、地動説についての話を聞いている。[[1536年]]には[[枢機卿]]の一人であるニコラス・シェーンベルクがコペルニクスに賞賛の手紙を送っている。しかし、このころはいまだコペルニクスはこの考えを出版する気持ちを持っていなかった。このころには[[ヘウムノ]]の司教となっていた親友のギーゼは何度も出版をめたが、それでもコペルニクスは動かなかった。
[[ファイル:K0nigl+herzoglPreussen.png|thumb|150px|[[第二次トルンの和約]]で成立したポーランド王領プロシアの区分。黄色が[[ヴァルミア]]司教領(エルムラント)であり、コペルニクスはこの黄色の地域で生涯の大半を過ごした]]
[[File:KOS sarkofag ze szczątkami Kopernika.jpg|thumb|150px|コペルニクスの遺物<br />[[オルシュティン]]の聖ヤコブ大聖堂]]