「万朶隊」の版間の差分

(出典つきで加筆)
[[ファイル:A Japanese Tragedy 1946 film (19) wmplayer 2013-04-09 19-33-00-479 R.jpg|260px|thumb|right|終戦直後の1946年に制作された日本映画社の映画『日本の悲劇 自由の声』で批判される第4航空軍富永恭次司令官]]
「万朶隊」の佐々木は、一説によれば合計9回の出撃命令を受けて<ref>{{Harvnb|鴻上尚史|2017|p=|loc=電子版, 位置No.8}}</ref> 7回出撃(うち敵艦を攻撃したのは2回)、もしくは3回の出撃を行い、いずれも生還したが<ref>1945年10月26日付朝日新聞記事「部下特攻隊を置去り歸國した富永指揮官 生きてた佐々木伍長の嘆き」</ref>、出撃最後の出撃後に[[マラリア]]を発症、回復したころにはルソン島にマッカーサーが直率する連合軍の上陸部隊が迫っていた<ref>{{Harvnb|ウォーナー|1982a|p=308}}</ref>。指揮する第4航空軍の戦力を使い果たした富永はマニラでの玉砕を声高に主張していたが<ref>{{Harvnb|木俣滋郎|2013|p=292}}</ref>、[[第14方面軍]]司令官[[山下奉文]]大将は、マニラは防衛戦に適さず多くの民間人が居住しているため[[無防備都市宣言|オープン・シティ]]とすべく、富永に撤退を散々促していた。特攻隊を連日見送り続けた精神的な負担と<ref>{{Harvnb|生田惇|1977|p=126}}</ref>、山下との意見相違で次第に心身ともに病んできた富永は寝込むことが多くなり[[従軍看護婦]]の介助を必要としたが、[[デング熱]]の高熱の症状もあって感情的になることも多く、参謀らにあたりちらすようになっていた<ref>{{Harvnb|高木俊朗③|2018|p=33}}</ref>。心身ともに衰弱している富永を見かねた参謀長の[[隈部正美]]少将は、富永を退避させることを名目に、第4航空軍司令部を台湾に撤退させることを計画し幕僚らと協議した<ref>{{Harvnb|戦史叢書48|1971|p=563}}</ref>。この計画は第4航空軍を台湾に撤退させた後に、戦力を補充してフィリピンを支援するという計画であったが<ref>{{Harvnb|戦史叢書48|1971|p=561}}</ref>、「最後の1機には、この富永が乗って体当たりする決心である」「マニラを離れては、特攻隊に申し訳ない」などと言ってきた富永もこの計画を了承した。ただし、戦後の富永の回想によれば、富永は入浴中に「第4航空軍の台湾移動の命令が出た」という隈部の嘘の報告を信じて、やむなく台湾に後退したとしているが、隈部が[[森本軍蔵]]少将に語ったところによると、事実は全く逆で、隈部は入浴中の富永に呼ばれると「総軍から、第4航空軍司令部は台湾にさがれという命令がきたぞ」と言われて、その頃は軍司令官と参謀の間には感情的なしこりもあったことから、参謀の誰もがことの真偽を確かめること無く、富永の指示通り台湾撤退の準備をしたとしており、富永の記憶と真っ向から対立している<ref>{{Harvnb|高木俊朗③|2018|p=229}}</ref>。
その後、隈部ら参謀は台湾後退の準備を進めるも、第4航空軍の台湾利用については直属の第14方面軍や[[南方軍]]に相談はしていたが、司令部後退までの承認は取っておらず、直属の第14方面軍や大本営には相談すらしていなかった。そして、隈部らは撤退用の航空機をどうにか準備すると、富永を台湾に逃がすための口実として「隷下部隊視察」との名目で台湾行きを大本営に申請した。やがて[[陸軍参謀総長]]からの台湾視察承認の電文が届いたので、これを富永らは台湾撤退許可と解釈し<ref>{{Harvnb|戦史叢書48|1971|p=567}}</ref>、富永は「[[九九式襲撃機|九九式軍偵察機]]」2機に、身辺を世話する准・下士官だけを乗せて、「隼」2機を護衛につけて台湾に向けて出発した<ref>{{Harvnb|高木俊朗③|2018|p=179}}</ref>。あとから隈部ら参謀も続いた。
 
司令部が台湾に逃亡したのち、搭乗員や整備兵といった航空要員は、育成が困難な特殊技術者でもあるため、優先的に台湾に避難させることにした。これには陸海軍の協力体制が構築され、輸送機、練習機、爆撃機など人員を多く乗せることができる機体がルソン島北部[[トゥゲガラオ]]飛行場と台湾を往復してピストン輸送を行った<ref>{{Harvnb|木俣滋郎|2013|p=294}}</ref>。しかし制空権は連合軍に握られており、航空機では一度に輸送できる人数が限られていることから、海軍が3隻の駆逐艦を救援に出すこととしたが、台湾を出てルソン島に向け航行中に「[[梅 (松型駆逐艦)|梅]]」が空襲により撃沈され、残り2隻も引き返した。やむなく海軍は潜水艦を出すこととし、8隻の呂号潜水艦を準備したが、作戦を察知したアメリカ軍の潜水艦[[バットフィッシュ (潜水艦)|バットフィッシュ]]に待ち伏せされ、[[呂号第百十二潜水艦|呂112]]と[[呂号第百十三潜水艦|呂113]]が撃沈されて、ルソン島に到着し航空要員の救出に成功したのは[[呂号第四十六潜水艦|呂46]]のみであった。しかし、航空機のピストン輸送と呂46に救出された航空要員は相当数に上り、日本軍航空史上では未曾有の大輸送作戦となった<ref>{{Harvnb|木俣滋郎|2013|p=295}}</ref>。輸送機には、従軍記者や<ref>{{Harvnb|大東亜戦史③|1969|p=391}}</ref>、従軍看護婦や、日本軍が愛用していたマニラの料亭「広松」の女将や芸者といった女性も[[軍属]]扱いで優先的に搭乗できたが<ref>{{Harvnb|高木俊朗③|2018|p=270}}</ref>、第4航空軍司令部幕僚が搭乗した機が撃墜され<ref>{{Harvnb|高木俊朗③|2018|p=265}}</ref>、また、連絡無く台湾[[澎湖諸島]]の海軍基地上空を飛行したため、海軍の高角砲で[[同士討ち]]された機もあって、兵器部長[[小沢直治]]大佐、経理部長[[西田兵衛]]大佐、軍医部長[[中留金蔵]]大佐や溝口高級副官などの多くの第4空軍幕僚が戦死するといった混乱もあった<ref>{{Harvnb|高木俊朗③|2018|p=276}}</ref>。
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