「スーパーカセットビジョン」の版間の差分

→‎日本での動き: まあ当時はまだMSXも1の時代ですし、本機の性能云々よりもファミコンの性能が高すぎたのが本質では。疑問視については(適当な出典があると望ましいですが)とりあえず表現を少し変えて様子を見たいと思います。
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(→‎日本での動き: まあ当時はまだMSXも1の時代ですし、本機の性能云々よりもファミコンの性能が高すぎたのが本質では。疑問視については(適当な出典があると望ましいですが)とりあえず表現を少し変えて様子を見たいと思います。)
[[アメリカ]]市場で[[アタリ_(企業)|アタリ]]の家庭用ゲーム機[[Atari 2600]]が登場後、日本市場でも1970年代後半から1980年代前半にかけ様々なメーカーがこぞって各社各様のゲーム機を発売した。しかし、次第に淘汰が進み、本機スーパーカセットビジョン登場で、残存ハードメーカーは[[任天堂]]・[[セガゲームス|セガ]]・エポック社の3社にほぼ絞られ<ref name="famitsu">{{Cite web|url=http://www.famitsu.com/guc/blog/tvgame/11475.html|title=第2回:TVゲームグラフティー[〜1984年日本編]|publisher=ファミ通.com|date=2012-12-14|accessdate=2015-10-18}}</ref>、当時の[[ゲーマガ#Beep|一部ゲーム雑誌]]等では「3大ハードメーカー」と称される。
 
ただし「3大ハードメーカー」と言っても、ハードウェアが当時としてはずば抜けて高性能であり、かつ[[サードパーティー]]の参入があってソフトが大量にリリースされていた任天堂・ファミコンのシェアが95%に達しており実質的に「1強2弱」の状態であり本機はマイナー機の部類に属する{{Refnest|group="注"|上記の通り、本機はファミコンが普及しはじめた頃に曲がりなりにも日本で三大ハードウエアの一角として一時はセガと対等のシェアを築いた存在ではあるが、一般的には長年にわたり語り継がれる機会が無く結果的に「知名度の低下したもの」がマイナー機として認識される。例えばライター兼コンサルタントの[[前田尋之]]は著書『負け組ハード列伝』<ref>{{Cite web|url=http://www.4gamer.net/games/999/G999905/20170120121/|title=かつてのハードにスポットをあてる書籍「負け組ハード列伝」が1月27日に登場。家庭用ゲーム機編,ホビーパソコン編が同時発売|publisher=4gamer.net|date=2017-01-20|accessdate=2018-03-04}}</ref>において、「''発売から数十年経ってなお一般的に商品が認知されているもの''」という観点から勝ち組ハードを定義しており、本機はそれに該当しない機種として紹介している。なおセガは後継機で世界的にブレイクしており撤退後もそのブランドイメージが語り継がれているほか、後年の三大ハードウエアの中には日本での販売台数が[[Xbox One|本機を下回るもの]]もあるなど、結果的に知名度の要因は必ずしもシェアの順位や普及台数だけではない。}}。
 
そのため、ファミコンブーム(テレビゲームブーム)下でゲーム雑誌が乱立した時期にも関わらず、本機関連記事が取り上げられる雑誌は『[[ゲーマガ#Beep|Beep!]]』([[ソフトバンク]]刊)と『[[ゲームボーイ_(ゲーム雑誌)|ゲームボーイ]]』(マガジンボックス刊)の2誌のみだった。なお、『Beep』誌には特定店でリサーチした毎月のソフト売り上げランキングが毎号掲載されており、『ドラゴンボール ドラゴン大秘境』は発売後、ほぼ不動の一位を守り続けた。(ドラゴンボールがヒットしていたわけではなく他のソフトか殆ど売れていなかったのが実情)
 
本機のスペックは1984年当時のファミコン以外の競合機に比べればまだ順当な範疇ではあったが、いずれにせよファミコンが群を抜く高性能という状況には変わりなかった。結果的に本機はファミコンよりも1年ほど新しい機種でありながらファミコンよりも全体的な性能が低く{{独自研究範囲|発売当初から対等に勝負出来るのか疑問視されてい不透明な状況だっ{{要出典|date=2020年1月|title=出典の記事に性能や勝負についての記述は無いので、念のため。}}がファミコンが品薄のときに代用品として僅かではあるが売上を伸ばしていった<ref name="famitsu" />。ただし、それもまだカセットのROM容量が少なくてシンプルなファミコンソフトしか無かったような頃の話である<ref group="注" name="rom" />。発売から1年以上経過した1985年後半になると業界に大きな動きが訪れる。ファミコンでは500万本以上を売り上げ社会現象を発生させ、決定的なキラーソフトとなった[[スーパーマリオブラザーズ]]が登場して急速にシェアが拡大。さらに本機とともに業界2番手を競っていたセガからはファミコンに匹敵する高性能機[[セガ・マークIII]]が登場したためスーパーカセットビジョンは劣勢に立たされた。
 
エポック社も巻き返し策として
なども行ったが、功を奏したとは言えず、この時点でシェア争いからの脱落は確定的となった。
 
しかし当時すでに任天堂・セガ・エポック社以外の競合機種はほぼ展開を終了していたこともあり、その後も本機は業界3番手として1987年を迎える頃まで地道な展開が続けられた。最終的なタイトル数は30本に及び、展開期間で平均すれば実に毎月1本のペースで新作ソフトが発売されたことになる。これは単一のメーカーの実績としては少ないものではないが、積極的なサードパーティー戦略をとった任天堂や、豊富なアーケード資産を抱えていたセガには及ばなかった。結果的にソフトの質<ref group="注" name="rom">本機が発売された1984年夏時点ではファミコンソフトもまだ3面程度のループゲームだったり、背景が真っ黒だったり、プレイ中のBGMが無いようなタイトルが売れ筋だった時代であり、当時の競合機として本機はこそこ妥当なの程度のスペックあっ想定されていた。しかしその後はすぐにROM容量の増大とともに本機では追従できないくらい急速にファミコンソフトの質が高まっていった。</ref>と量の両面でファミコンに及ばなかったことや、旧機種との互換性を無くしたことで既存のユーザーを移行できなかったことが敗因と見る向きもある<ref>{{Cite web|url=https://pc.watch.impress.co.jp/docs/news/1108868.html|title=世界の遊びを変えた国産ゲーム機進化の歴史 ~ファミコンから初代プレステまで|publisher= PC Watch|date=2018-02-28|accessdate=2019-11-09}}</ref>。
 
エポック社は1986年末<ref name="complete" /><!--p.56-->にゲーム市場から一時撤退、以降ソフト交換式の家庭用ハードは開発・発売していない。その後1989年12月15日発売の『[[ファミコン野球盤]]』でファミリーコンピュータのサードパーティーとして参入し、ゲームソフトメーカーとなった。