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[[第二次世界大戦]]後には、[[BC級戦犯]]裁判の舞台となった。シンガポールで行われた[[イギリス軍]]による軍事裁判で、[[西村琢磨]]中将は[[シンガポール華僑虐殺事件]]への関与により[[終身刑]]が宣告された。西村中将は[[オーストラリア軍]][[憲兵]]によって[[香港]]からマヌス島に移送され、マヌス島でオーストラリア軍の軍事法廷で再び裁かれた。検察側はパリ・スロンで西村がオーストラリア軍、[[インド軍]]の負傷兵に対して銃撃を命じたと主張した。西村中将は有罪判決が下され、1951年6月11日に[[絞首刑]]とされた。
 
[[1950年]][[9月5日]]、マヌス島に収容されていた戦犯ら16人が[[横浜港]]に帰国した<ref>「マナス島の戦犯帰る」『日本経済新聞』昭和25年9月6日2面</ref>。
 
マヌス島に第二次世界大戦前及び戦後に暮らしたアメリカの[[文化人類学者]][[マーガレット・ミード]]はその著書『''Growing up in New Guinea''』で島の様子を詳述している。