「知覧特攻平和会館」の版間の差分

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[[沖縄戦]]で[[日本陸軍]]の[[陸軍航空隊]][[第6航空軍 (日本軍)|第6航空軍]]司令官として[[特別攻撃]]を指揮した[[菅原道大]]が、終戦後に自決を決心するも、参謀長の[[川嶋虎之輔]]少将から「特攻隊の精神顕彰事業を為すは菅原将軍をおいて無し」と説得され、「正に然り、特攻精神の継承、顕彰は余を以って最適任者たること、予之を知る」<ref>菅原道大『菅原道大日誌』9月23日</ref>と自決することを止めて、もっとも特攻を知る者として、特攻隊員の顕彰、慰霊、遺族への弔問を行うことを決心、全国の特攻隊員の遺族巡りをしていた{{Sfn|佐藤|p=251}}。
 
知覧飛行場は戦後に進駐してきた[[アメリカ海兵隊]]に破壊されて跡形も無くなっており、「特攻の母」こと[[鳥濱トメ]]が、独自で跡地に木切れの慰霊碑を立てて生花や線香を絶やさずに供し慰霊を続けているだけであった{{Sfn|佐藤|p=254}}。遺族巡りを続ける中でていた菅原は、特攻隊員の慰霊施設の必要性を痛感し、元日本陸軍[[航空総軍]]司令官[[河辺正三]]や[[軍令部#歴代軍令部総長|軍令部総長]][[及川古志郎]]ら元軍幹部などと「特攻平和観音奉賛会」を設立{{Sfn|佐藤|pp=239-255}}、[[法隆寺]]の夢違観音像にちなみ、胎内に菅原直筆の特攻戦没者の芳名を記した巻物が収められた<ref name="sinbup278">『特攻隊振武寮』p.278</ref>「特攻平和観音像」を4体建立し、うち1体、陸軍航空隊の特攻基地であった[[知覧]]に建立されるこ祀りたいとなっ申し出た<ref>{{Harvnb|知覧高女なでしこ会 |1979|p=219}}</ref>。知覧飛行場は戦後同時進駐してきた[[アメリカ海兵隊]]に破壊されて跡形も無くなっていたが、「特攻の母」こと[[鳥濱トメ]]が、独自で跡地に木切れの慰霊碑を立てて生花や線香を絶やさずに供し慰霊を続けており{{Sfn|佐藤|p=254}}、菅原らは観音像を祀る観音堂建立のため鳥濱に協力を要請、鳥濱は快諾し、[[知覧町]]役場や地元町民に協力を呼びかける中で要請し、菅原らは日本全国でも寄付金を募った<ref>{{Cite journal|和書|author=知覧町 |title=母の像・特攻平和会館の由来 世界恒久平和を願って|url=http://www.honobono-taiken.net/kagoshima.attaka.minpaku/chirantokkoheiwakinenkan.annai.pdf |formt=PDF |page=12 |publisher=知覧町|date=1999年5月}}</ref>寄付金集め地元知覧でも、鳥濱が知覧町役場に協力を要請するなど積極的に行動していたが、観音堂建立の動きは戦後間もなくの反軍反戦の風潮のなかで、[[平和運動|平和運動団体]]などから「戦争賛美」と批判されるなど大変な苦労があった{{Sfn|福間|山口|2015|p=37}}鳥濱ら関係者はその都度「戦争犠牲者慰霊のための観音堂がなぜ悪いか」とはっきり反論している{{Sfn|佐藤|p=255}}。やがて、鳥濱らの要請を受けて[[知覧町]]も工費の一部を負担することとなり、陸軍航空隊知覧飛行場跡地に特攻隊員の精神の顕彰と世界平和の祈念を目的に[[1955年]](昭和30年)[[9月28日]]に「特攻平和観音堂」が建立され、観音像は「知覧特攻平和観音像」と命名され観音堂に収められた{{Sfn|福間|山口|2015|p=38}}。
 
「特攻平和観音堂」は、特攻隊員の慰霊施設を永年にわたって望んできた鳥濱や、知覧町立高等女学校(現[[鹿児島県立薩南工業高等学校]])の女学生で特攻隊員の世話をした「なでしこ隊」の元女学生ら知覧町民を喜ばせた<ref>[[高木俊朗]]『知覧』電子版P.3847</ref>。「特攻平和観音堂」において、毎年5月3日に慰霊祭法要が開催されるようになったが、当初の参列者は鳥濱や菅原ら関係者十数名に過ぎなかった。しかし鳥濱ら関係者の尽力もあって、後には知覧町(現在は[[南九州市]])あげての大規模なものとなり{{Sfn|福間|山口|2015|p=43}}、「知覧特攻基地戦没者慰霊祭」として参列者が1,000名を超えるような大きな催しとなっている<ref>[https://www.pref.kagoshima.jp/al01/event/nannsatu/310503-nannsatsu.html イベントカレンダー 第65回知覧特攻基地戦没者慰霊祭] - 鹿児島県ホームページ 2020年1月1日閲覧。</ref>。また、1975年には観音像の近くに全国からの浄財を集めて特攻隊員の銅像「とこしえに」が建立され<ref>{{Harvnb|知覧高女なでしこ会 |1979|p=219}}</ref>、翌1976年には[[知覧町]]により、隣接する運動公園の休憩所に「知覧特攻遺品館」が建築された<ref>[[高木俊朗]]『知覧』P.347~349</ref>。「知覧特攻遺品館」には、第213[[振武隊]]として知覧飛行場から特攻出撃するも機体の故障で不時着し九死に一生を得た、元特攻隊員で[[名古屋市役所]]職員の[[板津忠正]]が集めた特攻隊員の遺影や遺品や遺書が展示されることとなり、のちに板津は名古屋市役所を早期退職して知覧の「特攻遺品館」の事務局長に就任し、施設の維持管理とともに、まだ収集できていない陸軍航空隊特攻隊員の遺影や遺品などの収集を行った<ref>産経新聞社 2015年8月1日付記事『【特攻 戦後70年】第2部「戦友の思い伝えよう」 90歳まで生き抜いた知覧の“顔”』</ref>。知覧町も全国都道府県役場に協力を依頼、「陸軍特攻隊員御遺族芳名録」を作成し板津の収集作業を支援している<ref>{{Harvnb|板津|1979|p=292}}</ref>。
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