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=== 攻囲戦と要塞砲撃 ===
[[File:Japanese Army's advanced in Battle of Tsingtao.svg|thumb|青島の戦いにおける日本軍の進路。オレンジ色は租借地、灰色はその周囲に設けられた中国軍の立ち入れない中立地帯]]
1914年(大正3年)9月1日、山東半島北側の[[竜口市|龍口]]に先発隊が[[上陸作戦|上陸]]。[[神尾光臣]]中将(後に大将)指揮する[[第十八師団]](約29,000名)は9月11日に龍口に上陸した<ref>{{Harvtxt|片山|2012|p=52}} 上陸後の記述は伊藤正徳の『国防史』(1941年)による。</ref>。青島のある山東半島南側は[[機雷]]やドイツ軍艦艇により上陸に障害があることを念慮に入れ、あえて遠回りとなる安全な北岸に上陸した<ref>{{Harvtxt|片山|2012|p=52}}</ref>。9月27日より日本軍は龍口から青島に向けて[[偵察]]を繰り返しつつゆっくりと前進を開始。翌9月28日には青島市背後の生命線である浮山と孤山のドイツ軍前線に到達した<ref>{{Harvtxt|片山|2012|p=52}}</ref>。浮山と孤山からは青島市が見下ろせてしまうため決死の反撃が予想されたが、あえなく陥落。日本軍は、強力な火砲を有するドイツ軍要塞を攻略するための攻囲陣地構築にとりかかったが、折りからの豪雨で陣地は流失し、工期は1か月に伸びてしまったもののようやく完工した<ref>{{Harvtxt|片山|2012|p=52}}</ref>。ここへ、労山湾から上陸させた破壊力の大きな[[榴弾砲]]、[[カノン砲]]、[[山砲]]が続々と到着した。攻撃開始までの間、[[日露戦争]]での鬼気迫る突撃を知っている日本内外の記者や観戦武官、新聞を読んだ国民から、神尾には「なぜ部隊を突撃させないのか。[[旅順攻囲戦]]の激戦を知っているせいで臆病風に吹かれたのか」という疑問が多く寄せられた。