「東京都立戸山高等学校」の版間の差分

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[[深井鑑一郎]]校長(在任:1898 - 1938)の40年に及ぶ時代は、一中(日比谷)を追い越すことを念頭に東京一の中学を目指し、猛勉と規律を強制した<ref name="kuwahara" /><ref>新生通信編『日本の名門高校ベスト100 公立高校編』(新生通信・[[朝日新聞社]])「戸山高校編」を参照。</ref>。現在の都立の環境からは想像できないが、始業式当日に式の後に授業があった程で、予習、復習をきっちりやらせ、それを怠った場合や指されて応答できなかった場合は居残りをさせた。校則も厳しく忘れ物も3回(あるいは5回)に及ぶと成績評価がワンランク下げられたりし、中退者も1割に達するなど当時の一部の世情は「死中」と呼ぶほどであった<ref name="okada">『東京府立中学』(岡田孝一)pp.156-158を参照。</ref><ref>[[戸川秋骨]]は、当時社会問題化し始めた都会における中学受験熱を背景として、一中と四中の素行にまで及ぶ厳格な教育を批判し、特にある生徒の自殺に対する何気ない深井の言葉を槍玉に挙げたりしている。『断じて府立へは入れない 上』 [[東京朝日新聞]]1927年3月30日付朝刊5面、『断じて府立へは入れない 下』 同1927年3月31日付朝刊5面 より。</ref>。こうして、毎年[[第一高等学校 (旧制)|第一高等学校]]合格者数で一中に肉迫するようになり、1935年以降は、ほぼ毎年[[旧制高等学校]]現役合格率で首位にいた。さらに深井の“[[スパルタ教育]]”の影響も色濃く「[[市ヶ谷台]]」という土地柄、[[陸軍幼年学校]]や[[陸軍士官学校 (日本)|陸軍士官学校]]、[[海軍兵学校 (日本)|海軍兵学校]]等の軍学校に多数が入学した<ref name="okada" /><ref>『府立四中・都立戸山高校百年史』(都立戸山高校編、1988年)</ref>。<!-- 出典があるため多くの削除箇所を復帰させました。一中と四中の(詰め込み)教育は、在校生徒の思いとは別のところで当時の昭和初期の新聞の論調などで盛んに「一中・四中」などの題名の下、盛んに論争の的になっていました。そこで読売新聞と書きましたが、上述の東京朝日新聞の戸川秋骨の連載でした。お確かめください。また、四中が軍人教育と調和していたことも『東京府立中学』(岡田孝一、同成社、2004年5月)、『府立四中・都立戸山高校百年史』(都立戸山高校編、1988年)などでも確認できます。-->
 
[[1950年代|1950]]-[[1960年代|60年代]]には、日比谷、[[東京都立西高等学校|西]]、[[東京都立新宿高等学校|新宿]]、[[東京都立小石川中等教育学校|小石川]]等などと共に[[東京大学]]へ多合格者最上位校進学者一角輩出していた。[[1967年]]に導入された[[学校群制度]]等の影響下、同校や西高においては、日比谷など多くの都立校進学実績面におけるいて急落した反面、西などと共に比べると較的緩やかな退潮に留まていた<ref>[[1980年代]]後半に至るまで東大に40-50名前後が進学した。同時に、同校と同群の[[東京都立青山高等学校|青山]]、および[[東京都立西高等学校|西高]]と同群の[[東京都立富士高等学校・附属中学校|富士]]それぞれの東大合格者数も常時30名以上合格させる相乗効果も伴った。</ref>。[[平成]]に入ってからの数年間も東大合格者は20-30人前後、その後も二桁の合格者を維持していた。近年は若干名にとどまっていたが、[[進学指導重点校 (東京都)|進学指導重点校]]としての取り組み等により徐々に進学実績は回復してきており<ref>『都立高校のすべてがわかる本』(山崎謙)p.92〜、『名門復活 日比谷高校』(長澤直臣・鈴木隆祐、[[学研新書]]、2009年3月)p.22〜を参照。</ref>、2012年度、2013年度、2015年度は2桁の東大合格者を輩出している。2017年度は理科三類に1名合格者を輩出している。<!--出典はあくまで例示で提示。他にも資料があるのは自明ですが、進学面に関する記載は、ノート:日比谷高校などでまだ議論の中にあるはず。-->
 
=== 年表 ===