「三浦義村」の版間の差分
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| 氏名 = 三浦義村
| 時代 = [[平安時代]]末期 - [[鎌倉時代]]前期
| 生誕 = [[1160年]]~[[1165年]]頃?
| 死没 = [[延応]]元年[[12月5日 (旧暦)|12月5日]]([[1239年]][[12月31日]])
| 改名 =
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== 生涯 ==
=== 幕府創設期 ===
[[治承]]4年([[1180年]])、[[源頼朝]]の挙兵に当たり、父・義澄は[[東胤頼]]とともに決断を促したともされ
[[寿永]]元年([[1182年]])には、頼朝の妻[[北条政子|政子]]の安産祈願の祈祷のため、安房『[[天津神明宮|東條庤明神]]』へ[[奉幣使]]として遣わされた
=== 和田合戦・実朝暗殺 ===
[[建暦]]3年([[1213年]])には従兄弟で[[侍所]]所司であった[[和田義盛]]と[[北条氏]]打倒で結ぶが、これを直前で裏切って[[北条義時]]に義盛の挙兵を告げ、義盛は敗れて和田氏は滅ぶ([[和田合戦]])。大きな策謀には関わっており、幕政での地位を向上させることに腐心している。[[建保]]6年([[1218年]])、侍所所司に就任した。
建保7年([[1219年]])[[1月27日 (旧暦)|1月27日]]、3代将軍・[[源実朝]]が[[公暁]]([[源頼家]]の子)に暗殺される。公暁は義村に対し「我こそは東国の大将軍である。その準備をせよ」という書状を持った使いを出し、義村は「お迎えの使者を差し上げます」と偽って討手を差し向けた。待ちきれなくなった公暁が義村宅に行こうと裏山に登ったところで討手に遭遇し、激しく戦って振り払い、義村宅の塀を乗り越えようとした所を殺害された。この事件の真相は明らかではないが、公暁の[[乳母]]は義村の妻であり、子の[[三浦光村|駒若丸]]は公暁の門弟であるなど、義村との縁が深い事から、事件は公暁をそそのかして実朝と義時を同時に葬ろうとした義村が黒幕であるとする説や{{
=== 承久の乱・伊賀氏の変 ===
[[承久]]3年([[1221年]])の[[承久の乱]]では、[[後鳥羽天皇|後鳥羽上皇]]の近臣だった弟の[[三浦胤義]]から決起をうながす使者を送られるが、義村は直ちにこれを義時に知らせた。義村は幕府軍の大将の一人として[[東海道]]をのぼり、京方を破って上洛。胤義は敗死した。
[[元仁]]元年([[1224年]])、北条義時が病死すると、後家の[[伊賀の方]]が自分の実子である[[北条政村]]を[[執権]]に、娘婿の[[一条実雅]]を将軍に立てようとした[[伊賀氏の変]]が起こる。政村の[[烏帽子親]]であった義村はこの陰謀に関わるが、尼将軍・[[北条政子]]が単身で義村宅に説得に赴いた事により翻意し、事件は伊賀の方一族の追放のみで収拾した。だが伊賀氏謀反の風聞については執権となった[[北条泰時]]自身が否定しており、『[[吾妻鏡]]』でも伊賀氏が謀反を企てたとは一度も明言しておらず、政子に伊賀氏が処分された事のみが記されている。そのため伊賀氏の変は、鎌倉殿や北条氏の代替わりによる自らの影響力の低下を恐れた政子が、義時の後家・伊賀の方の実家である伊賀氏を強引に潰すためにでっち上げた事件とする説もある<ref>
=== 幕府宿老 ===
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== 人物 ==
* 藤原定家は義村を「八難六奇の謀略、不可思議の者か。」と評していた
* [[三浦介]]として鎌倉のある[[相模国]]を実効支配している三浦一族の威勢は次代・泰村の代になり、[[宝治合戦]]で[[北条氏]]との武力衝突にいたる事になる。
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{{先代次代|[[三浦氏|三浦氏歴代当主]]||[[三浦義澄]]|[[三浦泰村]]}}
{{
[[Category:平安時代の武士]]
[[Category:鎌倉幕府評定衆]]
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