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'''{{Infobox monarch||name=アッシュール・レシュ・イシ2世'''('''Ashur resh ishi II'''、在位:|title=[[紀元前10世紀アッシリア王]]|紀元reign=前972年-前967年|predecessor=[[アッシュール・ラビ2世]] - |successor=[[紀元前10ティグラト・ピレセル2]]|紀元前967年father=[[アッシュール・ラビ2世]])は|succession=[[アッシリア|中アッシリア王国]]時代の[[アッシリア]]の王|issue=[[ティグラト・ピレセル2世]]}}
'''アッシュール・レシュ・イシ2世'''(''Aššūr-reš-iši II''、<sup>m</sup>''aš-šur-''<small>SAG</small>''-i-ši''、「[[アッシュール (神)|アッシュール]]神は我が頭を持ち上げる」、在位:前971年-前967年)は[[アッシリア]]の王。『[[アッシリア王名表]]』には第96代のアッシリア王としてリストされている<ref group="i">''Khorsabad Kinglist'', tablet IM 60017 (excavation nos.: DS 828, DS 32-54), iv 10, 12.</ref><ref group="i">''Nassouhi Kinglist'', Istanbul A. 116 (Assur 8836), iv 25, 27.</ref>。5年間という短い彼の治世は詳細がはっきりせず、また前任者である[[アッシュール・ラビ2世]]および後任者である[[ティグラト・ピレセル2世]]の長い治世によって影が薄くなっている。
 
== 来歴 ==
[[アッシュール・ラビ2世]]の息子として生まれた。父王の死後王位についたが、彼の治世については王名表などに在位年が記されている以外の史料はほとんど存在しない。彼の死後息子の[[ティグラト・ピレセル2世]]が王位を継いだ。
彼は父親である[[アッシュール・ラビ2世]]の跡を継いで王となった。アッシュール・ラビ2世は41年間という長い在位期間を持っており、アッシュール・レシュ・イシ2世は恐らく即位した時にはかなり高齢であったであろう。『対照王名表(''Synchronistic Kinglist'')<ref group=i>''Synchronistic Kinglist'', tablet Ass 14616c (KAV 216), iii 8.</ref>』において彼に対応する[[バビロン]]の王はバビロン第7王朝(エラム王朝)の唯一の王である{{仮リンク|マール・ビティ・アプラ・ウツル|en|Mar-biti-apla-usur}}(在位:前983年-前978年)とされている。だが、バビロニアとアッシリアの伝統的な編年に照らして、実際の同時代の王は{{仮リンク|ナブー・ムキン・アプリ|en|Nabû-mukin-apli}}(在位:前978年-前943年)であった可能性の方が高い<ref>{{ cite book | title = A Political History of Post-Kassite Babylonia, 1158–722 B.C. | author = J. A. Brinkman | publisher = Pontificium Institutum Biblicum | year = 1968 | pages = 28–29 }}</ref>。{{仮リンク|リンム表|en|Eponym dating system}}「Cc」<ref group=i>Eponym List KAV 21, tablet VAT 11254, v.</ref>の断片において、彼の時代のリンム職担当者を記載していたはずの第V列最上部は{{仮リンク|脱落 (写本)|label=欠損|en|lacuna (manuscript)}}しており読み取れない<!--原文に無い文章を補うが、Eponym List KAV 21, tablet VAT 11254は英訳がWeb公開されており、それを見る限りこういう意味であるはずなので手を加える-->。
 
『アッシリア王名表』の写本と、彼の孫[[アッシュール・ダン2世]]による言及を別にすると、アッシュール・レシュ・イシ2世に言及する同時代の碑文は[[アッシュール]]のStelenreihe(石碑の列)から見つかった彼の石碑と<ref group=i>Stele RIMA 2 A.0.96.1 :2.</ref>、ベール・エレシュ(Bēl-ereš)のシリンダーの碑文<ref group=i>Cylinder inscription of Bēl-ereš, RIMA 2 A.0.96.2001:16.</ref>だけである<ref name=pna>{{ cite book | title = The Prosopography of the Neo-Assyrian Empire, Volume 1, Part I: A | chapter = Aššūr-rēšī-išši | author = K. Fabritius | editor = K. Radner | publisher = The Neo-Assyrian Text Corpus Project | year = 1998 | page = 213 }}</ref>。彼の石碑(No. 12)にはシンプルに「アッシリアの王(MAN.KUR aš-šur)[ア]ッシュール・[ラ]ビ([A]ššur-[r]abi)の子、アッシュール・レシュ・イシの''ṣalam''」と刻まれている。''ṣalam''という単語は「像」を意味するものと解釈される<ref>{{ cite book | title = Luxury And Legitimation: Royal Collecting In Ancient Mesopotamia | author = Allison Karmel Thomason | publisher = Ashgate Pub Co | year = 2006 | page = 110 }}</ref>。アッシュール市から発見されたシリンダーの碑文では、[[ハブール川]]の河谷地方にあるシャディカンニ(''Šadikanni'')の{{仮リンク|サムヌハ|en|Samnuha}}{{訳語疑問点|date=2020年1月}}神殿のシャングー(''šangû''、神官長)であったベール・エレシュが、アッシュール・ラビ2世の治世中に自分が行った運河の岸壁の建設と、アッシュール・レシュ・イシ2世の治世中に行ったサムヌハ神殿の再建を記念している。
 
== 史料 ==
<references group="i"/>
 
== 脚注 ==
 
{{Reflist}}
 
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{{succession box|title=[[アッシリア王]]|before=[[アッシュール・ラビ2世]]|after=[[ティグラト・ピレセル2世]]|years=前972年-前967}}
{{s-end}}
 
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[[Category:アッシリアの君主]]
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