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=== 昭和戦後 ===
[[1949年]]になり[[日本橋 (東京都中央区)|日本橋]]の浜町公園内に仮設国技館(木造)を建設し、ようやく1月場所(13日間)を開催する。5月場所では戦後初めて15日間行われ、以後興行期間は15日間となる。この浜町公園の仮設国技館は公園内に設置されていたことが問題となり、この2場所しか使用されず取り壊しとなった。そのため戦前に次期国技館建設用に用意していた蔵前の土地に仮設国技館を建設することとなる。ところがこの浅草蔵前仮設国技館([[蔵前国技館]])も消防署からの命令によって仮設であっても鉄筋造りの国技館が必要となった。その為蔵前仮設国技館の鉄筋化をはかり、その後5か年計画として年々充実されていった。
 
[[1950年]]から[[1952年]]は、本場所(1月、5月、9月)が各15日間行われた実施(ただし1952年は大阪場所が開かれず、3場所とも東京で開催)。このうち大阪は、1950年9月場所は[[阿倍野橋]]畔に、[[1951年]]9月場所は[[難波]](現在の[[大阪府立体育会館]]所在地)にそれぞれ仮設国技館を建て興行を行った。1952年に難波の仮設国技館を建替え、鉄骨製の大阪府立体育館(1987年から大阪府立体育会館)が竣工。翌[[1953年]]3月場所の会場となった。以後3月場所は大阪開催となり、現在に至る。
 
横綱の相次ぐ不成績が問題となり、1950年4月に有識者からなる[[横綱審議委員会]]が発足した。1957年には理事長に重要事項の建議を行える「運営審議会」も発足し財界トップや政治家が名を連ねた。全国的に[[テレビ]]が普及するに従い、[[日本放送協会|NHK]]の相撲のテレビ中継が始まる。一時は民放各社も中継していたが、間もなく撤退した。
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[[栃錦清隆|栃錦]]と[[若乃花幹士 (初代)|初代・若乃花]]の栃若時代が到来し、年間の場所数が増えていく。[[1957年]]には11月場所(九州場所、[[福岡スポーツセンター]])、[[1958年]]には7月場所(名古屋場所、[[名古屋市金山体育館]])を行うようになり、現在のような6場所(1月、3月、5月、7月、9月、11月)、15日間という体系になった。また、[[1965年]]1月場所から完全部屋別総当たり制が実施され、それぞれ現在に至っている。
 
[[国会 (日本)|国会]]で公益法人としての相撲協会のあり方について質疑が行われたこと(1957年4月、[[衆議院]][[文部科学委員会|文教委員会]])を受けて、[[相撲茶屋]]制度の改革、月給制の導入、[[相撲教習所]]の設立などの改革がこの当時行われた。<ref>[[リー・トンプソン (大学教授)|リー・トンプソン]]著、中久郎編『スポーツの近代化から見た相撲』91頁 現代社会学の諸理論 世界思想社(1990年)</ref>[[横綱審議委員会]]の内規もこの時期に充実した。また、1961年には[[年寄]]の停年制が実施された(「停年」の表記については後述)。1967年には前頭・十両の枚数削減も実施した。1968年には役員選挙の制度を改定、1969年には勝負判定にビデオ映像の使用を開始した。
 
[[1971年]]に中学在学中の入門が禁止され、当時在籍していた中学生力士は、卒業まで東京場所の日曜日のみの出場となった。
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1965年にはソ連、[[1973年]]には中国、[[1981年]]にはメキシコと海外公演が行われ、国際的な認知が始まる。
 
[[1985年]]1月、現在の国技館が完成し、再び両国に相撲が戻った。蔵前国技館は旧軍放出資材を用いて建てられたため、新しい国技館の建築が検討されていた。相撲協会など関係者は、相撲と縁の深い[[回向院]]のある両国界隈に建設地を定めた。そして約3年、総工費およそ150億円をかけ両国国技館が落成なった<ref>[https://gendai.ismedia.jp/articles/-/69476 サイエンス365days]ブルーバック編集部 科学今日はこんな日 1月9日新国技館の落成式が行われた 20200109</ref>。
[[1985年]]1月、現在の国技館が完成し、再び両国に相撲が戻った。
 
=== 平成 ===