「ダバオ誤報事件」の版間の差分

文章整え
(文章整え)
 
一方、[[美濃部正]](当時大尉で戦闘第901飛行隊長)によれば、上陸の報は信用できないので状況確認が急務であり、ダバオ第一基地に残っている零戦で自分が偵察するから司令部の移動を待ってほしいと寺岡中将に意見具申し、自ら零戦を操縦してタバオ湾を偵察飛行して、敵上陸が誤報であることを知らせたとしており<ref>戦史叢書37 海軍捷号作戦<1>台湾沖航空戦まで 453-454頁 出典は「美濃部少佐の戦後の回想」</ref>、一航艦司令部付の[[門司親徳]]海軍主計少佐も、寺岡ら司令部要員とミンタルまで移動したのち、夕方にダバオ第2基地から到着した通信参謀から「[[第一五三海軍航空隊]]の美濃部隊長が修理した零戦に乗って、ダバオ湾を強行偵察した結果、湾内には何の異常もない」と聞いたとしている<ref>{{Harvnb|門司|1978|p=245}}</ref>。寺岡に意見具申した状況について美濃部は、一航艦からの撤退命令があったとき偶然にもダバオ湾が一望できる山腹中央の指揮所にいたが敵の上陸を目にしていなかったので、電話で司令部の撤退命令に異議を唱えるも埒が明かないため、[[抗命]]による[[死刑]]も覚悟で寺岡に直接意見具申すべく自ら運転してダバオの司令部に向かった。途中で撤退してきた一航艦の車列と鉢合わせになったので、運転してきた車で進路を遮って停車させ、寺岡に「長官、第二ダバオに水陸両用戦車近接中と言われますが、湾内に船1隻見えません」と進言した、そこに猪口が「[[サマール島]]の陰になっていよう」と口を挟んできたので美濃部はダバオ第1飛行場に残されていた1機の零戦で偵察飛行をすることも提案し、寺岡らに第2ダバオ基地で自分が偵察飛行してくる間待機しておくよう進言、美濃部はその後にダバオ第1飛行場まで行くと16時30分に自らの操縦で零戦を飛ばして偵察を行い、アメリカ軍上陸は誤報であったことを確認のうえ報告したと主張している<ref>{{Harvnb|美濃部正|2017|p=264}}</ref><ref>{{Harvnb|石川真理子|2016|loc=電子版, 位置No.1286}}</ref>。しかし、寺岡と一緒にダバオを発った猪口の著書と第一航空艦隊司令部付で寺岡の副官であった[[門司親徳]]海軍主計少佐の著書のいずれにも移動中に美濃部に引き止められたなどとする記述はなく、寺岡は猪口ら参謀らを第2ダバオ基地に残し、“大事をとって”[[第三十二特別根拠地隊]]司令部が撤退した[[ミンタル]]まで一部の司令部要員と移動して、そこで敵上陸は誤報であったとの報告を受けている<ref>{{Harvnb|猪口|中島|1951|loc=電子版, 位置No.330}}</ref><ref>{{Harvnb|門司|1978|p=243}}</ref>。
ダバオの偵察飛行を行ったとの関係者の証言がある玉井について美濃部は、ダバオ第一基地で残っていた零戦で偵察飛行をしようとしたところ、玉井から、セブに帰る必要がありその零戦を使用すると貸与を拒否されたため、美濃部はやむなく別の零戦を用意して約一時間後発進となったと主張している<ref>戦史叢書37 海軍捷号作戦<1>台湾沖航空戦まで 454頁 出典は「美濃部少佐の戦後の回想」</ref>。しかし他の出典となる美濃部の遺稿において、美濃部と玉井とのやり取りの記述はなく、出典により美濃部の主張が相違している<ref>{{Harvnb|美濃部正|2017|p=264}} 遺稿</ref>。
 
また、美濃部は後日、調査に訪れた奥宮から事情聴取を受けたと主張しているが<ref>{{Harvnb|美濃部正|2017|p=265}} 遺稿</ref>、査察した奥宮の著書に玉井の証言の記述はあるが、美濃部に関する記述はない<ref>{{Harvnb|奥宮正武|1996|loc=電子版, 位置No.923}}</ref>。誤報事件当日の美濃部の行動については、美濃部が飛行隊長である戦闘901は、9月9日に美濃部がかねてから計画してきた夜間戦闘機によるアメリカ軍[[機動部隊]]への夜襲を行うため、稼働全機となる[[月光 (航空機)|月光]]9機、零戦2機を[[レイテ島]]のタクロバン飛行場に集結させ、まず、同日深夜に月光3機に[[三号爆弾]]を搭載させてフィリピン東方洋上に索敵攻撃に出撃させている。しかし、月光隊はアメリカ軍機動部隊に接触することなく2機が未帰還で指揮官森国雄大尉を含む4名が戦死、もう1機も[[F6F (航空機)|F6Fヘルキャット]]の攻撃で偵察員が戦死し、操縦の陶三郎上飛曹が損傷した機体でどうにか10日の未明に生還するという一方的な惨敗を喫している<ref>{{Harvnb|伊沢|1975|p=144}}</ref>。この攻撃は、美濃部の遺稿によれば、森が率いる「レイテ島分遣隊」単独の作戦とされているが<ref>{{Harvnb|美濃部正|2017|p=265}} 遺稿</ref>、実際には戦闘901の月光の稼働機全機が集結しての総力攻撃作戦であった<ref>{{Harvnb|渡辺|1983|p=121}}</ref>。従って、美濃部は大損害を被った戦闘901を置いたまま、同日早朝には自分の飛行隊がいない第2ダバオ飛行場にいて、9日のアメリカ軍による爆撃の後始末を行いそのときに誤報事件に巻き込まれたことになるが<ref>{{Harvnb|境克彦|2017|p=252}}</ref>、戦闘901が属する[[第一五三海軍航空隊]]戦時日誌戦闘詳報によれば、ダバオにあった戦闘901の月光3機と零戦1機は9日の空襲で全機被弾し、うち1機が大破、2機が中破したとなっており、飛行隊長の美濃部が戦闘901の総攻撃であるのに、手持ちの作戦機が全て地上で破壊されてレイテに集結することができず誤報事件に遭遇した可能性もある<ref>アジア歴史資料センター「第153海軍航空隊戦時日誌戦闘詳報 MD書簡.邀撃戦.戦闘第901飛行隊 比島方面来襲敵機動部隊邀撃」「ハ.戦闘901飛行隊兵力分散配備状況」</ref>。
 
午後4時37分、ダバオ司令部に戻った寺岡は「第一航空艦隊調査の結果「ダバオ」地区に敵上陸の事実なし」と部内全般に取り消し電報を発した(送信電源故障のため、一部通達が遅れ、上層作戦指導当局が確認するまで時間がかかった)<ref>戦史叢書37 海軍捷号作戦<1>台湾沖航空戦まで 454頁</ref>。
11日、第三南遣艦隊(比島部隊)司令部は指揮下の部隊に対し、「当分の間、一般の上陸外出を禁じ、各部隊各庁部は極力戦備促進充実に専心邁進すべき」旨を下令し、連合艦隊司令長官は全部隊に注意を喚起した<ref>戦史叢書37 海軍捷号作戦<1>台湾沖航空戦まで 458頁</ref>。
 
南西方面艦隊司令部では、この誤報の原因について真相がつかみきれず、敵の謀略にかかったのではないかと判断されるところもあり、調査のために通信参謀久住と軍令部参謀奥宮を現地に派遣した<ref>戦史叢書37 海軍捷号作戦<1>台湾沖航空戦まで 457頁</ref><ref>{{Harvnb|奥宮正武|1996|loc=電子版, 位置No.912}}</ref>。13日、同司令部参謀長がその調査結果を連合艦隊司令長官に打電報告し、見張員の錯誤とこれの確認処置の不十分が原因と伝えた<ref>戦史叢書37 海軍捷号作戦<1>台湾沖航空戦まで 458頁</ref>。14日、南西方面艦隊長官は指揮下の部隊に訓示し、指揮官の統率に関し戒めた<ref>戦史叢書37 海軍捷号作戦<1>台湾沖航空戦まで 458頁</ref>。
 
== 誤認の原因 ==
1,477

回編集