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== 思想 ==
坐禅の持つ意味や目的の解釈は、[[禅宗]]でも思想により流儀が別れる。[[公案]]により見性しようとする[[臨済宗]]は、疑問を抱きつつ坐禅することにより[[悟り]]に至る[[看話禅]]の立場を採る。これに対し、[[曹洞宗]]は何かの目的のための手段として坐るのではなく、坐禅そのものが目的であり、坐ること自体に集中する[[黙照禅]]の立場に拠り、日本曹洞宗の祖・[[道元]]は、ただひたすら坐ことに打ち込む'''只管打座'''を唱えた<ref>しかんたざ。只管とは[[中国語]]で「ひたすら専念すること」打とは「行う」こと、つまり「ひたすら坐る」の意味である。しかし曹洞宗においても、修行者本人が現成公案を抱えるので、修行者本人の疑問・疑団が解消されるまでは、逃げずに疑問に正面から向き合うことが要求される。疑団の解消後は、臨済宗・曹洞宗共に、最終的に只管に落ち着くとされる。どちらも自身の懸案から逃げずに、己自身に対峙するのが坐禅の特徴である</ref>。[[北宋]]時代に臨済宗と曹洞宗は理論的に激しく対立し、この対照は現代の日本にまで継続している。
 
日本曹洞宗の祖・[[道元]]は、ただひたすら坐ることに打ち込む'''只管打座'''(しかんたざ)を唱えている。しかし、曹洞宗においても、修行者本人が現成公案を抱えるので、修行者本人の疑問・疑団が解消されるまでは、逃げずに疑問に正面から向き合うことが要求される。疑団の解消後は、臨済宗・曹洞宗共に、最終的に只管に落ち着くとされる。どちらも自身の懸案から逃げずに、己自身に対峙するのが坐禅の特徴である。
 
'''入堂の仕方'''