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=== 日本軍逆上陸 ===
[[ファイル:Peleliu's Great White Way.jpg|thumb|夜間戦闘の様子、日本軍の夜襲に対しアメリカ軍の発射したパラシュートフレアと曳光弾が夜空を照らしている]]
ペリリュー島にアメリカ軍が上陸したとの報告があったのち、パラオの[[第14師団 (日本軍)|第14師団]]司令部では連日逆上陸について議論が行われていた。歩兵第15連隊は当初から、逆上陸を想定した海上機動部隊に指定されており、その訓練も積んできたので、連隊長の[[福井義介]]大佐は計画通りの逆上陸を意見具申し「軍旗を先頭に連隊主力が逆上陸すれば、米軍を撃滅することも可能です。ましてや、我が連隊の第3大が奮戦している今日、連隊主力がおめおめと[[パラオ]]に安住してはおれません。速やかに増援出撃させて下さい」と師団長の[[井上貞衛]]中将に迫った。しかし、師団参謀長の[[多田督]]大佐が「1個連隊を増援輸送するだけの舟艇が足りない、それに制空・制海権はまったく敵の手にあり、海上機動の可能性も疑問に思う。米軍がペリリュー上陸に引き続いて、パラオ本島に進攻してくる可能性も大きい」と反対意見を述べた、多田は「切れることカミソリのごとし」と評されている有能な参謀で、その判断は正しいものと思われ合理的であったが、部下将兵が苦闘しているなかで、連隊長の福井が連隊主力をもって救援したいという気持ちもよくわかり、また、逆上陸作戦成功の可能性も全くないとは言え思われないので、師団長の井上は判断をすることができず、時間だけが刻々と過ぎていった<ref>佐藤和正 『玉砕の島―太平洋戦争激闘の秘録』188頁</ref>。
 
師団司令部が方針を決めきれない中、9月18日に現地の中川から、蟻の這い出る隙間もない激しい警戒態勢のなかで逆上陸を敢行することは、火中に飛び込むようなものであり「我が歩兵第2連隊だけで十分であり、ペリリューに兵力をつぎ込んでも無駄である。」という増援拒否の電文が送られてきた。この中川の電文により、一旦は逆上陸断念という方針に傾いたが、第15連隊長の福井は部下将兵救援のため、なおも逆上陸を激しく主張し続けた。しかし、18日の時点で、第15連隊第3大隊の残存部隊は島南部でアメリカ軍の第7海兵連隊に追い詰められて、爆薬を抱いて戦車に突入するなど勇戦敢闘しつつも、最後は断崖から身を投じる兵士もいるなど、一兵残らず戦死していたが、それを福井が知るよしもなかった<ref>佐藤和正 『玉砕の島―太平洋戦争激闘の秘録』189頁</ref>。
 
ペリリューの戦況は悲観的なものではあったが、守備隊は勇戦敢闘を続けており、上陸して1週間経ってもアメリカ軍の進撃ぶりは遅遅としたものであった。また、前線の中川から送られてくる戦況報告は「米軍はわがペリリュー守備隊の勇戦により、疲労困憊し、ことに砲爆弾の欠乏に悩んでいるのは確実であり、もっぱら、新戦力の来着を待っている模様なり」「米軍の戦意もようやく衰え、戦車もわが軍の肉攻に恐怖し、退避につとめている」などと活気に満ちたものであった<ref>佐藤和正 『玉砕の島―太平洋戦争激闘の秘録』189頁</ref>。この戦況報告を聞いた司令部で、再び逆上陸実施の機運が高まり、反対する参謀長多田の反対意見も次第に押されるようにな力を失ってゆきアメリカ軍上陸1週間経った後の9月22日に師団長井上は「米軍は我がペリリュー守備隊の勇戦にて疲労困憊し、ことに砲爆弾の欠乏に悩んでいる事は確実であり、もっぱら新鋭戦力の来着を待っている。今やペリリューはあと一押しで米軍を完全に敗退に導き、これを陸岸から駆逐する事も可能である。」と判断を下増援を送る事と決定した。しかし、師団司令部としてもパラオにアメリカ軍のさらなる侵攻が予想される中で、ペリリューに大兵力を注ぎこむことは避けたいとの判断もあり、最終的に歩兵第15連隊全部ではなく、第2大隊(指揮官飯田義榮少佐)を増援として、ペリリュー島に逆上陸することを命じた<ref>『戦史叢書 中部太平洋陸軍作戦(2)ペリリュー・アンガウル・硫黄島』180頁</ref>。
 
同日夜10時には第一陣として第2大隊第5中隊(指揮官村堀中尉)215名が[[大発動艇]]5隻に分乗し、[[パラオ]]本島アルミズ桟橋より出発した。途中でアメリカ軍艦艇に発見されるもうまく回避し、7時間かけてペリリュー島北端のガルコロ桟橋に到達、揚陸作業中にアメリカ軍機の空襲を受け大発動艇は全て撃沈されたが、人的損害は死傷14名に止まり、残りの兵員はペリリュー守備隊に合流した。先遣隊村堀隊の上陸成功の報に師団司令部は湧き立ち、「援軍は不要」と打電していた中川大佐も非常に感激し、苦闘する守備隊の士気も大いに高まった。師団司令部は次いで第2大隊主力の出撃を命じた。命令を受けて第2大隊主力は総勢1,092名が大発動艇及び[[小発動艇]]合計29隻に分乗して23日の午後に出発した<ref>船坂弘『血風ペリリュー島』堯文社 105頁</ref>。
 
飯田少佐は大隊主力を4艇隊に分けて、場所や時間を変えてペリリューを目指したが、アメリカ軍は先日の先遣隊の上陸成功で、日本軍の増援を警戒しており、飯田少佐を含む第2艇隊は、駆逐艦などの海軍艦艇まで投入して警戒するアメリカ軍を躱しながらペリリュー島を目指していたが、全艇がペリリュー島近隣のガラカシュール島周辺の浅瀬に座礁してしまった。アメリカ軍は日本軍の意図を察し、ガラカシュール島周辺に激しい砲撃を加えアムタンクも差し向けた為、日本軍に死傷者が続出したが、飯田少佐らは浅瀬を徒歩もしくは泳いでペリリュー島にたどり着いた。第3艇隊も同様にペリリュー島近隣のゴロゴッタン島周辺で相次いで座礁、そこを警戒していたアメリカ軍艦艇に狙い撃たれ、撃沈されたり大破炎上する艇が続出した。大隊主力は合計で大発動艇8隻・小発動艇2隻が撃沈もしくは大破し、百数十名が戦死したが、残りはペリリュー島に上陸を果たした。しかし部隊間の連絡が困難だった上に、大隊の一部がアメリカ軍戦車部隊との戦闘となり多大な損害を被った為、27日時点で飯田少佐が掌握できている兵力は約400名と激減していた<ref>『戦史叢書 中部太平洋陸軍作戦(2)ペリリュー・アンガウル・硫黄島』184頁</ref>。