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天隠は、[[正長]]2年(1429年)の7歳の時に播磨を出て京都に上った。『[[実隆公記]]』に則れば、天隠は父母と共に上洛し、[[永享]]3年(1431年)の10歳の時に[[建仁寺]]に入り、喝食となった <ref>{{cite book |和書 |author=[[玉村竹二]] |title=五山文学新集|volume=5|publisher=[[東京大学出版会]] |date=1971-3-31|page=1316}}</ref>。[[永享]]10年(1438年)の17歳の時に剃髪し <ref>{{cite book |和書 |author=[[玉村竹二]] |title=五山文学新集|volume=5|publisher=[[東京大学出版会]] |date=1971-3-31|page=1318}}</ref>、天柱和尚の使徒となった<ref> {{cite book |和書 |author= 李寅生|title=漢詩名作集成|publisher=[[明徳出版社]] |series=日本編|date=2016-3-4|page=246|isbn=9784896199574}}</ref>。実際は、天柱と同門の法弟で、天隠からみたら法の叔父に当たる宝洲衆に師事した<ref>{{cite book |和書|title=民友社出版書籍目録|publisher=[[民友社]]|date=1912-6|page=296}}</ref>。
 
[[応仁の乱]]が起こると、天隠は各地の寺を転居した。[[文明]]3年(1471年)の時に幕府内に大昌院が復興され、赤松政則の招聘を受け、天隠は上京した。それから2、3年経ち[[諸山]]の公帖を受けて、山城西禅寺の前住位に昇り、[[西堂]]となった。[[文明]]7年(1475年)11月20日には、建仁寺内の大昌院ではなく、幕府内の大昌院において、[[真如寺]]の公帖を受け、その年の12月8日に入院の式を行い<ref>{{cite book |和書 |author=[[玉村竹二]] |title=五山文学新集|volume=5|publisher=[[東京大学出版会]] |date=1971-3-31|page=1320}}</ref>、洛北の[[真如寺]]に住むこととなり{{Sfn|猪口|1972|p=103}}、天柱和尚に嗣承香を通じて、天柱和尚の法嗣となった。[[文明]]14年(1482年)2月21日には、五山建仁寺の公帖を大昌院において受け、3月16日に建仁寺内の大昌院に入院した。[[文明]]9年(1487年)4月26日には、[[南禅寺]]の公帖を受け{{Sfn|玉村|1971|p=1320}}、[[南禅寺]]に隠住した。[[明応]]9年(1500年)9月23日に示寂した。享年79<ref>{{cite book |和書 |author= 猪口篤志|title=新釈漢文大系|volume=45|publisher=[[明治書院]] |series=日本漢詩(上)|date=1972-8-25|page=103|isbn=9784625570452}}</ref>。
 
== 作品==