「小早川正平」の版間の差分

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[[1526年]]、父・興平が21歳の若さで没すると、沼田小早川氏の家督をわずか4歳にて相続。当時の芸備地方では[[尼子氏]]と[[大内氏]]の争いが頻繁に繰り返され、それに巻き込まれた小早川氏は当主の早世と相まって徐々に疲弊し衰退していくこととなる。
 
[[1540年]]、[[尼子詮久]]が[[毛利元就]]の征伐を目的に[[吉田郡山城]]へ侵攻([[吉田郡山城の戦い]])、小早川正平は大内氏を寝返り尼子氏に通じた。しかし家中の大内派が[[高山城]]を占拠、[[大内義隆]]から城番が高山城に派遣され当主である正平は大内氏の監視下に置かれるという異常事態になった。
 
[[1542年]]、[[大内義隆]]が出雲遠征を開始、尼子氏を一気に殲滅しようとした([[月山富田城の戦い|第一次月山富田城の戦い]])。小早川正平は毛利元就らとともに大内方に従軍したが、翌[[1543年]]、大内氏は敗北を喫し退却を開始。毛利元就とともに殿軍を務めた正平は、尼子方の追撃よって[[出雲国]]内にて哀れにも21年の短い生涯を終えることとなる。
 
{{先代次代|[[小早川氏|沼田小早川氏歴代当主]]|1526~1543|[[小早川興平]]|[[小早川繁平]]}}
 
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[[Category:小早川氏|まさひら]]