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'''威化島回軍'''(いかとうかいぐん)は、[[高麗]]末期の[[1388年]]([[王ウ (高麗王)|{{lang|ko|禑王}}]]14年)に、[[遼東]]攻伐軍の将軍であった[[李成桂]]が起こした政変。
 
'''威化島回軍'''(いかとうかいぐん)は、[[高麗]]末期の[[1388年]]([[王ウ (高麗王)|{{lang|ko|禑王}}]]14年)に、[[遼東]]攻伐軍の将軍であった[[李成桂]]が起こした[[クーデター|政変]]
[[遼東]]攻伐軍の将軍に任じられた李成桂が、駐屯地の[[威化島]]から攻伐軍の主力部隊を首都の[[開京]](現在の[[開城]])に帰還させ(回軍)、[[崔瑩]]を中心とした政権を倒したもので、高麗王朝崩壊の重要な契機となった。
 
[[遼東]]攻伐軍の将軍に任じられた李成桂が、[[駐屯地]]の[[威化島]]から攻伐軍の主力部隊を首都の[[開京]](現在の[[開城]])に帰還させ(回軍)、[[崔瑩]]を中心とした政権を倒したもので、高麗王朝崩壊の重要な契機となった。
 
== 事件の経過 ==
[[1388年]]2月、[[元 (王朝)|元]]を倒して政権を確立した[[明]]の[[朱元璋|洪武帝]]は、高麗に対して元代に得た旧領を返還するように要求してきた。これに対し、親元派が主流であった高麗朝廷は議論の末、崔瑩を総司令官とする攻伐軍の遼東派遣を決定し、[[曹敏修]]と李成桂を左右都統使に任命した。この派兵に対して、李成桂は「四不可論」を掲げて反対を表明していた。 
 
『高麗史』によれば、「四不可論」の内容は「今者、師(軍のこと)を出すに、四つの不可あり。小([[高麗]])を以て大([[明]])に逆うは、一の不可なり。夏月に兵を発するは、二の不可なり。国を挙げて遠征せば、[[倭]]([[日本]])はその虚に乗ぜん、三の不可なり。時方に暑雨し、弓弩の膠は解け、大軍は疾疫せん、四の不可なり」というものであった。
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同年4月18日に西京(現在の[[平壌]])を発した軍は、5月7日に[[鴨緑江]]の中洲である威化島に到着したが、折からの長い[[梅雨]]で鴨緑江が増水し、渡河できずに難渋していた。李成桂は曹敏修に撤兵をもちかけて賛同を得ると5月22日に回軍を決定し、開京を目指した。反乱軍を率いた李成桂は6月1日には開京近郊に帰還して布陣すると、2日後に王城に侵攻し、崔瑩を捕捉して配流後に処刑した。また禑王を廃して[[江華島]]に追放した後に賜死した。後継者には曹敏修の意見を入れて、[[王昌 (高麗王)|昌王]]が即位した。
 
その後、クーデタに成功した李成桂と曹敏修は主導権を争った結果、李成桂が勝利し、翌[[1389年]]に李成桂が推す[[恭譲王]](高麗最後の王)が即位した。こうして李成桂が実権を完全に掌握して[[李氏朝鮮|朝鮮王朝]]開国の基礎を築いた。
 
威化島回軍があらかじめ計画されたクーデタであったかどうかについては見解の分かれるところだが、李成桂と曹敏修との共同行動のとり方、また曹敏修主導の新王の推戴の経緯からみて、出兵当初からの計画的行動というよりは、従軍の現場での実利的な状況判断からの行動とみるのが妥当である。