「1990年のヤクルトスワローズ」の版間の差分

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'''1990年のヤクルトスワローズ'''(1990ねんのヤクルトスワローズ)では、1990年シーズンについての[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルトスワローズ]]の動向をまとめる。
 
この年のヤクルトスワローズは、[[野村克也]]監督の1年目のシーズンである。
 
== 概要 ==
[[1990年代]]の「ヤクルト黄金時代」の礎を築いた[[関根潤三]]監督の勇退を受けて、後に「ID野球の神様」と呼ばれた野村克也が新監督に就任。[[1978年]]の初優勝以降Bクラスに低迷するチームの体質改善のため、「ID野球」をスローガンとしてチームの再建に着手。野村新監督は関根前監督の「若手中心の野球」を継承しつつドラフト2位で入団の[[古田敦也]]を正捕手に起用し、それまでの正捕手だった[[秦真司]]や控え捕手の[[飯田哲也]]を外野にコンバートしてシーズンに臨んだ。しかし、前年優勝の[[読売ジャイアンツ|巨人]]との開幕戦で開幕投手の[[内藤尚行]]が[[篠塚和典]]に疑惑の本塁打を打たれてチームもサヨナラ負けすると、開幕2戦目は[[木田優夫]]にサヨナラ本塁打を打たれるなど最悪のスタート。チームも5月には[[阪神タイガース|阪神]]と同率の最下位となり、「野村監督でもヤクルトの再建は無理」の声が世間から出始めた。6月以降は立ち直るものの首位独走の巨人の背中は遠く、9月8日には[[巨人キラー]]の[[川崎憲次郎]]が[[吉村禎章]]に優勝決定サヨナラ本塁打を浴びるなど終始巨人を苦手にし続けた。最終的には首位の巨人から30ゲーム、2位で貯金2の[[広島東洋カープ|広島]]には8ゲーム差を離され、また選手が[[パシフィック・リーグ|パ・リーグ]]出身の野村監督に抵抗するなどID野球がチーム全体に浸透しなかったこともあり野村監督の1年目は5位で終わった。
 
== チーム成績 ==