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== 略歴 ==
* [[712年]]([[先天 (唐)|先天]]元年) : 河南府鞏県(現在の[[河南省]][[鄭州市]][[鞏義市]])で生まれる。父は[[杜閑]]、母は崔氏。兄弟は四人。[[襄州]]襄陽県(現在の[[湖北省]][[襄陽市]][[襄州区]])の人。杜甫の家は代々地方官であった<ref name=":5">{{Cite book|和書|title=杜甫 漢詩大系 第9巻|year=1968|publisher=集英社|author=目加田誠|date=}}</ref>。[[本貫]]は[[京兆郡]][[杜陵県 (陝西省)|杜陵県]]。[[三国時代 (中国)|三国時代]]から[[西晋]]の武将であり、「破竹の勢い」で有名な[[杜預]]は先祖にあたる。その曾孫杜遜に至って襄陽にうつり、その後、杜依芸に至って、鞏県の県令となり、河南府鞏県に遷った<ref name=":5" />。祖父は「文章四友」<ref>唐代の杜審言・李嶠・崔融・蘇味道のこと。「文章四友」という言葉は唐書の杜審言伝に見える。</ref>の一人で、初唐の宮廷詩人として有名な[[杜審言]]はこの杜依芸の子である。杜審言の子の杜閑が奉天の県令となり、その子が杜甫である。杜甫がその遠祖の地によって京兆の杜甫と名のったり、また襄陽に分かれた支派の後裔なるが故に、杜甫をもって襄陽の人とするのも以上の来由があるのである。また杜甫の叔父(杜審言の次男)の杜並は、杜審言が仇人司馬季重らのため、無実の罪を被せられて、獄につながれ、しかも事にかこつけて殺されているのを憤り、まだ13歳の少年であったが、仇人季重を刺殺し、その場で自分も殺された。この事件は当時世間を感動させたことであったが、杜甫の血液にはこうした剛直な精神も流れていたと見てもよいであろう。杜甫の母は、清河崔氏の出身で、杜甫の幼少のときに亡くなった。ただこの母方の親戚はかなり大きな一族であった<ref name=":5" />。
* [[715年]]([[開元]]4年) : [[許州]][[エン城区|郾城県]]で公孫大娘が剣器渾脱を舞うを見る(或はこれを開元5年とする)。
* [[718年]](開元7年) : 初めて詩文を作成する。
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* [[758年]]([[乾元 (唐)|乾元]]元年) : 房琯を弁護したことにより粛宗の怒りを買い、[[華州 (陝西省)|華州]](現在の[[陝西省]][[渭南市]])の司功参軍に左遷される。
* [[759年]](乾元2年) : 関中一帯が飢饉に見舞われたことにより、官を捨てて、家族をつれて[[秦州]](現在の[[甘粛省]][[天水市]])に赴く。さらに同谷(現在の甘粛省[[隴南市]][[成県]])に移るが、[[ドングリ]]や[[ヤマノイモ|山芋]]などを食いつないで飢えを凌ぐ。[[蜀道の険]]を越えて12月[[成都市|成都]]に赴く。ひとまず城西の寺の僧復空のもとに身を落ち着けた。
* [[760年]]([[上元 (唐粛宗)|上元]]元年) : 成都で浣花渓のほとりに草堂([[杜甫草堂]])を建てる。
* [[760年]]([[上元 (唐粛宗)|上元]]元年) : 成都で浣花渓のほとりに草堂([[杜甫草堂]])を建てる<ref name=":3">杜甫の成都草堂に関しては古川末喜『杜甫農業詩研究 八世紀中国における農事と生活の歌』(知泉書館、2008年)の第Ⅱ部第一章「浣花草堂の外的環境・地理的景観」や松原朗「[http://ir.acc.senshu-u.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=4110&item_no=1&page_id=13&block_id=52 杜甫と裴冕 : 成都草堂の造営をめぐる覚書]」(『専修人文論集』第91巻、2012年)、同じく松原朗「[https://waseda.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=39957&item_no=1&page_id=13&block_id=21 杜甫の百花潭莊 : 浣花草堂のもう一つの顔]」(『中國詩文論叢』第32巻、2013年)など研究がある。</ref>。
* [[762年]]([[宝応]]元年) : 夏まで草堂に在り。李白死す(62歳)。
* [[764年]]([[広徳 (唐)|広徳]]2年) : 春に妻子をつれて[[隆州|閬州]]にゆき、そこから舟に乗って嘉陵江をくだり、[[渝州]]に出ようとする。そのとき厳武が再び成都尹兼剣南東西川節度使となって成都にかえってくることを知り、1年9ヶ月ぶりに草堂へと戻る。近所の人々は喜んで杜甫を歓迎したようである<ref name=":5" />。
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* [[766年]]([[大暦]]元年) : [[信州 (四川省)|夔州]](現在の[[重慶市]]の北東部)へ移る。もっとも彼はこの地において、たびたびその住居をかえている。夔州に着いた当初は、山中の「客堂」に寓居した。この「客堂」のようすは、彼の詩に詳しく述べられている。山の傾斜に木を組んで架けた、鳥の巣のような小屋であった。その家のそばに、彼は鶏を飼った。そしてこの地の人の例に習って、長くつないだ竹の筒で、山中の泉から水を引いた。こうした仕事は、この地でやとった蛮族の下男の阿段がよくやってくれたようである。秋、西閣に移る。ここはそれまでの「客堂」にくらべればよほどましで、江に臨み、朱艦をめぐらした可成りな住居であった。彼はここにいて、ほど近い白帝城や、西郊の武侯廟、江中にある八陣図、城東の先主廟、そのほか夔州の名勝を訪ねては詩を作った。秋がすぎて、柏茂琳(はくもりん)が夔州の都督となって以来、杜甫はこの人のたすけを得ることが多かった。それに関する詩が数詩残されている<ref name=":5" />。
* [[768年]](大暦3年) : 正月に杜甫の一家は、白帝城の下から船を出し、江陵に向かった。舟中、40韻の長変を作って、沿岸の風景や遺跡をうたい、自分の生涯を詠じた。江陵に着いたときは雨で、その中をとりあえず、荊南の行軍司馬をしている、従弟杜位の家に入った。江陵は、更に江を下って東呉のほうに出るのにも、あるいは北に向かって襄陽を経て長安洛陽の方に帰るにも、交通の要路であった。しかし杜甫が江陵に来たころ、北方は相変わらず荒れていた。結局秋の末になって、また舟にのって江陵を去り、一時、公安に寓した。歳の晩近く、さらに岳州にくだる<ref name=":5" />。
* [[770年]](大暦5年) : 4月、潭州から乱を避けて、湘江を南にさかのぼり、衡州に入った杜甫は。舟中炎熱に苦しんだ。そこから更に南下して、チン州に行って、母方の叔母が録事参群をしているのにたよろうとしたが、途中、ライ陽まで来たとき、洪水のためにやむを得ず方田駅に停泊し、半旬(5日)の間食べ物が無かった。ここで、杜甫が、このライ陽の県令にもらった肉と白酒を食べすぎて、その夜死んだという伝説が生まれた。秋から冬にかけて、湘江を漂うていたらしいが、この間のことは詩にもないし、よく分からない。そしてその冬、舟ではあかざの豆粥をすすり、こわれかけた黒板の脇息を、縄で幾重にも縛ってそれそれ暗雲惨とした歳の暮であることを、陰鬱な調子でうたっているが、ついにそれが絶筆となった<ref name=":5" />。襄陽を通り洛陽を経由して長安に戻ろうとしたが、[[湘江]]の舟の中で客死した。死因としては、頂き物の牛肉を食べ過ぎて亡くなったとする逸話が有名だが、この逸話は後世の創作であるとする意見も多く、正確な死因は不明である<ref name=":0">杜甫の生涯に関しては、[[下定雅弘]]・[[松原朗]]編『杜甫全詩訳注』第4冊の巻末に付された古川末喜の杜甫年譜が詳しい。古川作成の年表は『佐賀大学文化教育学部研究論文集』(2015年)に収録された「[http://portal.dl.saga-u.ac.jp/handle/123456789/122738 杜甫年表(稿):教学のための]」も閲覧できる。また、[[小川環樹]]編『唐代の詩人-その伝記』([[大修館書店]]、1975年、229頁、当該箇所は黒川洋一担当)には[[新唐書|『新唐書』]]巻201「杜甫伝」の訓読、現代語訳、注、参考文献が記載されており、歴史書における杜甫の評価、生涯等を知ることができる。なお、周祖譔主編『中国文学家大辞典 唐五代巻』([[中華書局]]、1992年、中文書)は歴史書に記載がないような詩人についてまで幅広く記載がある。</ref>
 
== 詩の特徴 ==
杜甫の詩の特徴として、社会の現状を直視したリアリズム的な視点が挙げられる。杜甫は当時の[[士大夫]]同様、仕官して理想の政治を行いたいという願望から、社会や政治の矛盾を積極的に詩歌の題材として取り上げ、同時代の親友である李白の詩とは対照的な詩風を生み出した。特に自らの困難を世の中全体の問題としてとらえ描き、後世「詩聖」<ref name=":4" />と称された。また「詩史(詩による歴史)」と呼ばれるその叙述姿勢は、後の[[白居易]]の諷喩(風諭)詩などに受け継がれてゆく。
 
[[安史の乱]]前後、社会秩序が崩壊していくさまを体験した頃の詩は、政治の腐敗や戦乱の様子、社会的状況を悲痛な調子で詳細に綴った内容のものが多い。それらの様々な出来事を普遍化、一般化することなく、徹底的に個別性を直視し、描写することを通して、ある種の普遍性、真実に迫ろうとするという。この頃の代表作として崩壊した長安の春の眺めを詠じた「春望」、社会の矛盾を鋭く指摘した「三吏三別」(「新安吏」「潼関吏」「石壕吏」「新婚別」「垂老別」「無家別」の六首)華州司功参軍を辞したのちに訪れた秦州での様子を細かに描写した「秦州雑詩二十首」がある<ref>植木久行『唐詩物語―名詩誕生の虚と実と』(大修館書店、2002年、73-99頁)</ref>。
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成都を去って以後、夔州などで過ごした最晩年期の杜甫は、社会の動乱や病によって生じる自らの憂愁それ自体も、人間が生きている証であり、その生命力は詩を通して時代を超えて持続すると見なす境地に達した。夔州以降も詩作への意欲は衰えず、多方面にわたって、多くの詩を残している。詩にうたわれる悲哀も、それまでの自己の不遇あるいは国家や社会の矛盾から発せられた調子とは異なる、ある種の荘厳な趣を持つようになる<ref>[[吉川幸次郎]]「杜甫について」(『吉川幸次郎全集第十二巻』、筑摩書房、1968年)</ref>。この時期の代表作に、「秋興八首」「旅夜書懐」「登高」などがある。
 
また杜甫は[[文選 (書物)|『文選』]]<ref>「六朝梁の昭明太子によって編纂された『文選』は、唐から近代に至るまで 中国文学の規範の一つとされてきた。『文選』の文学観は、昭明太子が序に言う 「事出於沈思、義帰乎翰藻」(事は沈思に出で、義は翰藻に帰す)に集約されているが、唐以後の文学に対して、『文選』の及ぼした影響として看過できないのは、その作品内容に関わる「沈思」よりも、むしろ言語表現の美をいう「翰藻」の方であろう。文学言語の創作という面で『文選』の与えた影響はきわめて大きいと思われるのである。」[https://home.hiroshima-u.ac.jp/cbn/index.html 広島大学中国文学研究室HP]より</ref>を非常に重んじた詩人としても知られる。次男・宗武の誕生日に贈った「宗武生日」に「熟読せよ文選の理に」との文言が見えるなど、この言葉からも『文選』を重視していたことはうかがわれる。杜甫は『文選』に見える語をそのまま用いるだけでなく、『文選』に着想を得て、新たな詩の表現を広げようと追及していた。詩の表現への執着は「江上値水如海勢聊短述」の「人と為り性僻にして佳句に耽ける、語人を脅かさずんば死すとも休まず」句が端的にそのことを示すだろう<ref>大橋賢一「杜甫と『文選』」(松原朗編『杜甫と玄宗皇帝の時代』勉誠出版、2018年、202-214頁)</ref>。
 
== 詩人としての評価 ==
杜甫の詩人としての評価は必ずしも没後短期間で確立したものでない。没後数十年の中唐期に、[[元シン|元稹]]<ref>元稹「唐故工部員外郎杜君暮係銘」序で「詩人以来(『詩経』の詩人)、未だ子美(杜甫の字)の如き者有らず」と絶賛した。また、『雲仙雑記』巻七に中唐の[[張籍]]が杜甫の詩集を焼いて、灰にし、蜂蜜と混ぜて飲み「吾が肝腸をして此れより改易せしめよ」といった逸話も残っている。</ref>・[[白居易]]・[[韓愈]]<ref>韓愈「調張籍」にて「李杜文章在り、光燄万丈長し」と杜甫を評価する。</ref>らによってその評価は高まったものの、[[北宋]]の初期でさえ、当時一世を風靡した[[西崑体|西崑派]](晩唐の[[李商隠]]を模倣する一派)の指導者の[[楊億]]は、杜甫のことを「村夫子」(田舎の百姓親父)と呼び嫌っていたという<ref>劉攽『中山詩話』「楊大年、不喜杜工部詩、謂為村夫子。楊大年、杜工部の詩を喜ばず、謂て村夫子と為す。」とある。これを吉川幸次郎『宋詩概説』(新版・岩波文庫、2006年、92頁)は踏まえているのだろう。</ref><ref>北宋における杜甫詩の受容に関しては湯浅陽子「[https://mie-u.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=1553&item_no=1&page_id=13&block_id=21 北宋中期における杜詩の受容について]」(『三重大学人文学部文化学科研究紀要』第二十七巻、2010年)がある。</ref>。一方、南宋初期の詩人である[[呉可]]は『蔵海詩話』の中で「詩を学ぶに、当に杜(甫)を以て体と為すべし」と述べている。
 
[[明]]の[[胡應麟|胡応麟]]の『詩藪』に「李絶杜律」とあるように[[絶句]]を得意とした[[李白]]と対照的に、杜甫は[[律詩]]に優れているという評価が一般的である。奔放自在な李白の詩風に対して、杜甫は多彩な要素を対句表現によって緊密にかつ有機的に構成するのを得意とする。
[[明]]の[[胡應麟|胡応麟]]の『詩藪』に「李絶杜律」とあるように[[絶句]]<ref>下定雅弘が運営する[http://chinese.art.coocan.jp/ 中国文学の回廊]というHPに下定の講義用資料「[http://chinese.art.coocan.jp/zekku.html 絶句の美学]」が掲載されている。</ref>を得意とした[[李白]]と対照的に、杜甫は[[律詩]]に優れているという評価が一般的である<ref>例えば、明代の趙宦光らによる『万首唐人絶句』を紐解いてみると李白の絶句は100首余りが収録されるのに対し、杜甫は50首程度である。</ref><ref>杜甫の律詩への評価は一貫して高く、[[江戸時代]]儒者の津坂東陽は、杜甫の律詩に注解を施した『杜律詳解』といった書物も残している。『杜律詳解』は近年二宮俊博が訳注製作を行っている。[https://lib.sugiyama-u.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=2535&item_no=1&page_id=13&block_id=21 津坂東陽『杜律詳解』訳注(一)]から(十五)まである。</ref>。奔放自在な李白の詩風に対して、杜甫は多彩な要素を対句表現によって緊密にかつ有機的に構成するのを得意とする<ref>[[高島俊男]]『李白と杜甫』(新版・[[講談社学術文庫]]、1997年、348-49頁)では、「絶句四首 其三(両箇黄鸝)」詩を取り上げて、杜甫の絶句を「独立した対句として見るならば、これはまことにりっぱなもので、文句のつけようはない、ただ、そのみごとな対句を二つ並べて、はい、これで絶句でございます、と言われては少々納得しかねる」と評している。その一方で[[松浦友久]]編『校注 唐詩解釈辞典』(「絶句四首 其三」備考「杜甫の絶句」、377頁より、執筆担当は宇野直人)は「彼の絶句が、絶句の通念と異なっているとしても、そこに律詩の名手としての彼の個性がまぎれもなく刻印されているという意味では、それらの作品もやはりかけがえのない価値を有すると言ってもよいだろう」と評価する。なお、杜甫の対句については高木正一「杜詩の対句についての一考察」(『中国文学報』第一冊、1954年)などの論文がある。</ref>。
 
== 日本語訳注・評釈書 ==
*[[鈴木虎雄]]『杜甫全詩集』(全4冊、日本図書センター、1978年。『杜少陵詩集』1928~31年刊の復刻版)- '''全訳'''
*:〔仇兆鰲の配列順〕全詩に訳注が施された代表的な訳本の一冊。仇兆鰲の『杜詩詳注』に基本的には依拠しつつ、訳者自身の解釈も反映。
*鈴木虎雄『杜詩』(全8巻、[[岩波文庫]]、復刊1989年、2005年ほか)- 抄訳
*:元版は戦前刊の全訳・注解を、黒川洋一が補訳改訂。[[清|清朝]]の[[乾隆帝]]の勅撰詩集『唐宋詩醇』<ref>全47巻。[[清]]の[[乾隆帝]]による勅撰詩集。乾隆15年(1750年)の成立。[[唐]]の[[李白]]、杜甫、[[韓愈]]、[[白居易]]、[[宋]]の[[蘇軾]]、[[陸游]]の六人の詩を選び、詩ごと、詩人ごとに評を付す。評は当時の評価基準を示すものとして注目される。日本では李白、杜甫の部分だけ江戸時代に翻刻された。[[近藤春雄]]『中国学芸大事典』(大修館書店、1992年、600頁)等を参照した。</ref>中の杜甫詩に訳注を施したもの。
*[[目加田誠]]『杜甫 漢詩大系9』([[集英社]]、1965年)。新装版『杜甫 漢詩選9』(集英社、1996年)- 抄訳
*目加田誠『杜甫 中国詩人選3』(集英社、1966年)。新装版『杜甫 中国名詩鑑賞4』([[小沢書店]]、1996年)- 抄訳
*[[吉川幸次郎]]『杜甫 [[世界古典文学全集]]28・29』(筑摩書房、1967-72年、復刊1982年、2004年ほか)- 抄訳
*吉川幸次郎『杜甫詩注』(全5冊、[[筑摩書房]]、1977-83年)。逝去により5冊目中途で刊、下記は新訂版- 抄訳
*吉川幸次郎『杜甫詩注』([[興膳宏]]編、第1期・全10巻、[[岩波書店]]、2012-2016年)- 抄訳
*:弟子興膳宏らにより2012年より加筆修正が施され、遺稿を含め引き継ぎ第1期を出版。第2期・全10巻は時期未定
*[[小野忍]]・[[小山正孝]]・佐藤保編訳『杜甫詩選』(全3巻、[[講談社]]学術文庫、1978年)- 抄訳
*[[黒川洋一]]『杜甫 中国詩人選集』(岩波書店(上・下)、1957-59年、新版(全1巻)、1983年)- 抄訳
*黒川洋一『杜甫 鑑賞中国の古典17』([[角川書店]]、1987年)- 抄訳
*黒川洋一編訳『杜甫詩選』(岩波書店、1991年、ワイド版1994年)- 抄訳
*『杜甫全詩訳注』(全4巻、[[講談社学術文庫]]、2016年6月-10月)- '''全訳'''
*:編者代表は[[下定雅弘]]・[[松原朗]]。〔仇兆鰲の配列順〕最新の研究を反映しつつ、全詩に訳注を施した訳本。各巻巻末に杜甫に関する解説、年譜<ref name=":0" />、人物説明、杜甫関係地図、詩題索引<ref name=":2">重松詠子作成の[http://japandufu.toho.u-tokai.ac.jp/furukawa-catalogue.html 杜甫詩題索引--訳解・校注等14種文献中における--]にて、詩題索引を行うことができる。『杜甫全詩訳注』を含まない索引は古川末喜・重松詠子の両者作成の「[http://portal.dl.saga-u.ac.jp/handle/123456789/122531 杜甫詩題索引:訳解・校注等13種文献中における]」(『佐賀大学文化教育学部研究論文集』第20巻、2016年)も利用できる。</ref>などが付された4巻組。鈴木虎雄『杜甫全詩集』が仇兆鰲『杜詩詳注』に依拠しつつも、時折鈴木独自の解釈をおこなうことに対して、本書は『杜詩詳注』の解釈に準拠する。また、解釈に諸説あるものはその旨を記載している<ref>編者松原朗が『杜甫全詩訳注』の刊行に際し本書の社会的意義等について述べている記事、URLは[https://gendai.ismedia.jp/articles/-/49269 こちら]</ref>。
*[[川合康三]]『[[新釈漢文大系]] 詩人篇 六・七 杜甫』([[明治書院]]、2019年5月-)全12巻(後者は未刊)- 抄訳
*[[森槐南]]『杜詩講義』(全4巻、松岡秀明校訂、[[東洋文庫 (平凡社)|平凡社東洋文庫]]、1993年、ワイド版2009年)明治期の評釈書。 - 抄訳
 
== 中国大陸・台湾で刊行の注釈本、現代中国語での訳本 ==
*仇兆鰲『杜詩詳註』(全5冊、[[中華書局]]、第一版1979年)<ref>[https://ctext.org/wiki.pl?if=gb&res=450812 『杜詩詳注』] 中國哲學書電子化計劃</ref>
:最も代表的とされる版本。杜甫の使用する詩語の由来を網羅的に調査している。ただし詩の内容と関係のなさそうな用例をしばしばあげている点は注意が必要である。ただ、それは仇兆鰲自身が、言葉の意味より言葉の由来、初出をあげることを重視したためである<ref>古川末喜『杜甫農業詩研究 八世紀中国における農事と生活の歌』(知泉書館、2008年、Ⅴ頁)</ref>。
*蕭滌非(主編)・張忠綱(全書終審統稿人)他『杜甫全集校注』(全12冊、[[人民文学出版社]]、2014年)。楊倫の配列順
*韓成武・張志民主編『杜甫詩全訳』(河北人民出版社、1997年)。仇兆鰲の配列順
*李濤松・李翼雲『全杜詩新釈』(全2冊、中国書店、2002年、北京)。仇兆鰲の配列順
*張志烈主編『(今注本)杜詩全集』(全4冊、天地出版社、1999年)。楊倫の配列順
*林継中輯校『杜詩趙次公先後解輯校』(全2冊、上海古籍出版社、1994年)
*王嗣奭『杜臆』(曹樹銘増校『杜臆増校』藝文印書館印行、1971年、台北)
*浦起竜『読杜心解』(全3冊、中華書局、初版1961年)
*楊倫『杜詩鏡銓』(上海古籍出版社、1988年)
*銭謙益『銭注杜詩』(全2冊、上海古籍出版社、1979年)
*張忠綱主編『杜甫大辞典』(山東教育出版、2009年)
*林継中『新訳杜詩青華』(全2冊、[[三民書局]]、2015年、台湾)。詩句に[[注音符号]]が付されている。
*張元済『宋本杜工部集』(全20冊、上海商務印書館、1957年)<br>上海図書館の所蔵する宋代の本を写真版によって原寸通りに覆印した。現存最古のテキストであり、字句また詩の配列、北宋の時代に編定された形をそのままに示し、しばしば後来の諸テキストの妄改を正している。<ref>{{Cite book|title=杜甫詩注 第1冊|date=|year=2012年|publisher=岩波書店|last=吉川幸次郎}}</ref>
*張忠綱編注『杜甫詩話六種校注』(斉魯書社、2002年)<br>杜甫の作品は収録されていないが、宋の蔡夢弼『杜工部草堂詩話』<ref>『杜公部草堂詩話』をはじめとして、詩話、詞話のテキストは搜韻にて、公開されている。URLは[https://sou-yun.cn/PoemComment.aspx こちら]</ref>など6種類の詩話を収録している。
*宋開玉『杜詩釋地』山東大学文史哲研究院専刊(上海古籍出版社、2004年)杜甫の詩中に詠われる地名について網羅的に収録した注釈書の一種。
*陳冠明・孫愫婷『杜甫親眷交游行年考 : 外一種杜甫親眷交遊年表』(上海古籍出版社、2006年)杜甫と交友のあった人物について網羅的に収録した注釈書の一種。また、その交遊に関する年表も掲載される。
 
== 日本語での杜甫評伝・研究 ==
*『[[吉川幸次郎]]全集 第十二巻 杜甫篇』 [[筑摩書房]]、1968年、復刊1998年
:杜甫に関する論考集成、長年の杜甫研究を概観できる。補篇は第二十二・二十五・二十六巻に収録
:単著判は『杜甫私記』、『杜詩論集』、各・筑摩叢書。小著で『杜甫ノート』 [[新潮文庫]]、改版1970年
*[[目加田誠]]『杜甫物語 詩と生涯』 [[社会思想社]]<現代教養文庫>、1969年
:改訂版『著作集7 杜甫の詩と生涯』 龍渓書舎、1984年
*高木正一『杜甫』 [[中公新書]]、1969年
*福原龍蔵『杜甫 沈痛漂泊の詩聖』 [[講談社現代新書]]、1969年
*[[郭沫若]]『李白と杜甫』[[須田禎一]]訳、講談社、1972年
*[[黒川洋一]]『中国詩文選15 杜甫』 [[筑摩書房]]、1973年
*[[田中克己]]『杜甫伝』 [[講談社]]、1976年
*馮至『杜甫伝 詩と生涯』 橋川時雄訳、筑摩書房<筑摩叢書>、1977年、再版1983年
*黒川洋一『杜甫の研究』 [[創文社]]、1977年
*[[鈴木修次]]『杜甫 人と思想』 [[清水書院]]、1980年、新装版2014年
*和田利男『杜甫 生涯と文学』 めるくまーる社、1981年
*黒川洋一『杜詩とともに』 創文社、1982年。他の論考もある
*[[森野繁夫]]『中国の詩人7 杜甫』 [[集英社]]、1982年
*劉開揚『杜甫』 橋本堯訳、中国古典入門叢書:日中出版、1984年、再版1991年
*[[高島俊男]]『李白と杜甫』 講談社学術文庫、1997年。改訂版(旧版は評論社)
*黒川洋一『杜甫 中国の古典<ビギナーズ・クラシックス>』 福島理子編、[[角川ソフィア文庫]]、2005年
*古川末喜『杜甫農業詩研究 八世紀中国における農事と生活の歌<ref>本書の元となった博士論文は、神戸大学機関リポジトリから閲覧できる。URLは[https://core.ac.uk/download/pdf/41076400.pdf こちら]</ref>』 [[知泉書館]]、2008年
:2018年に西北大学出版社より、「日本学人唐代文史研究八人集」として中国語に翻訳されて出版されている。
*[[興膳宏]]『杜甫-憂愁の詩人を超えて』 [[岩波書店]]「書物誕生 あたらしい古典入門」、2009年
:中国詩歌史における杜甫の立ち位置を提示し、[[近体詩]]・[[古体詩]]を軸に、生涯に沿って作品を読む。巻末に参考文献一覧、年譜が付される。
*宇野直人・聞き手[[江原正士]]<ref>NHKラジオ番組「古典講読 漢詩」2007年度後半を改訂書籍化。</ref>『杜甫-偉大なる憂鬱』[[平凡社]]、2009年
*後藤秋正『東西南北の人―杜甫の詩と詩語』 [[研文出版]]、2011年
*後藤秋正『杜甫詩話―何れの日か是れ帰年ならん』 研文出版、2012年
*[[川合康三]]『杜甫』 [[岩波新書]]、2012年
*[[松原朗]]編『杜甫研究論集 生誕千三百年記念』 研文出版、2013年<ref>遠藤星希に書評がある。遠藤星希[https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/235223/1/cbh08500_140.pdf <nowiki>「[書評]中國詩文研究會 松原朗編『生誕千三百年記念 杜甫 硏究論集』」</nowiki>](『中国文学報』、2014年)</ref>
*谷口真由美『杜甫の詩的葛藤と社会意識』 [[汲古書院]]、2013年
*古川末喜『杜甫の詩と生活―現代訓読文で読む<ref>筆者はこの著作の中で現代訓読文という試みを行っている。それは口語体による漢詩の訓読であり、注なしで漢詩を読むという方法である。例えば、「江漲」詩の「江漲柴門外」は一般的な訓読では「江は漲る 柴門の外」であるが、現代訓読文では「柴づくり わがやの門の 外には江の 漲りあふれ」となる。巻末には、杜甫関連地図や索引のほか、杜甫生活年表が付される。杜甫の生活に密着した年表であり、一般の年表とは一線を画すものである。</ref>』 知泉書館、2014年
*後藤秋正『花燃えんと欲す―続・杜甫詩話』 研文出版、2014年
*後藤秋正『「春望」の系譜―続々・杜甫詩話』 研文出版、2017年
*松原朗編『杜甫と玄宗皇帝の時代』 [[勉誠出版]]、2018年
*長谷部剛『杜甫詩文集の形成に関する文献学的研究』 関西大学出版部、2019年
*向島成美編『李白と杜甫の事典』 [[大修館書店]]、2019年
*日本杜甫学会編『杜甫研究年報』 勉誠出版
 
== 著名作品 ==
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{| border=1 cellspacing=0 cellpadding=3
|-
!colspan=3 style="background-color:#CCCCCC;"|春望<ref group="※">本詩の解釈は、下定雅弘・松原朗『杜甫全詩訳注』第一巻(講談社学術文庫、2016年、443頁)に拠った。題意は、至徳二載(七五七)三月長安での作。当時杜甫は長安にて軟禁されていた。また、家族を鄜州に疎開させていた。情勢は日に日に悪化する一方で、そのとき春の眺めをみて詠じた作。詩型は五言律詩。韻字は下平一二侵「深・心・金・簪」本詩に関しては、後藤秋正「春望の系譜」(『「春望」の系譜 続々・杜甫詩話』所収、研文出版、2017年)、大橋賢一「[https://tsukuba.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=45311&item_no=1&page_id=13&block_id=83 中学校国語教科書における漢文教材としての「春望」について]」(『中国文化』第63巻、2005年)、堀誠「 [https://waseda.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=10731&item_no=1&page_id=13&block_id=21 杜甫「春望」という古典教材] 」(『早稲田大学大学院教職研究科紀要』第6巻、2014年)、丁秋娜「[https://waseda.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=11215&item_no=1&page_id=13&block_id=21 日本と中国における「漢文教育」の比較研究 : 杜甫の「春望」の場合] 」(『早稲田大学教育学部学術研究 国語・国文学編』、2009年)などの論文がある。</ref>
|-
!style="background-color:#CCCCCC;"|原文<br/><small>([[ピン音|拼音]])</small>
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|'''國破山河在'''<br/><small>(guó pò shān hé zài)</small>
|国破れて山河在り
|国家(唐の国都当時は[[長安]])は崩壊してしまったが、山や河は変わらず、
|国家(唐の国都当時は[[長安]])は崩壊してしまったが、山や河は変わらず、<ref group="※">「国」と「山河」という語に関しては後藤秋正に「[http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/2507 杜甫「春望」の「国」について]」(『札幌国語研究』第14巻、2009年)と同じく後藤「杜甫の詩における「山河」と「山川」、「江山」」(『杜甫の春望の系譜 続々杜甫詩話』所収、研文出版、2017年)がある。</ref>
|-
|'''城春草木深'''<br/><small>(chéng chūn cǎo mù shēn)</small>
196 ⟶ 119行目:
 
|時に感じては花にも涙を濺ぎ
|時世(戦乱の時期)の悲しみを感じては花を見ても涙がこぼれおち、
|時世(戦乱の時期)の悲しみを感じては花を見ても涙がこぼれおち、<ref group="※">「花濺涙」は「花'''が'''涙をこぼす」とも訳せるため、花が泣いていると擬人法と解釈する説もある。次句の「鳥驚心」も同様。吉川幸次郎『杜甫詩注』第三冊(筑摩書房、1979年、191頁)などが擬人法で解釈する代表的なものとして挙げられる。この聯に関しては、野口宗親「[http://reposit.lib.kumamoto-u.ac.jp/handle/2298/1025 杜甫「春望」の濺涙について]」(『熊本大学教育学部紀要』第43巻、1994年)、野口宗親「杜甫「春望」の驚心について」(『国語国文研究と教育』第32巻、1995年)、岡本洋之助「[https://archives.bukkyo-u.ac.jp/repository/baker/rid_CB001200007300 杜甫「春望」の「感時花濺淚、恨別鳥驚心」句の解釋 宋代の場合]」(『中国言語文化研究』第12号、2012年)、後藤秋正「[https://tsukuba.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=45732&item_no=1&page_id=13&block_id=83 杜甫「春望」の頷聯について]」(『中国文化』第73巻、2015年)など数編論文がある。</ref>
|-
|'''恨別鳥驚心'''<br/><small>(hèn bié niǎo jīng xīn)</small>
204 ⟶ 127行目:
|'''烽火連三月'''<br/><small>(fēng huǒ lián sān yuè)</small>
|烽火&ensp;三月に連なり
|三月<ref group="※">三月にまで続くと解したが、他に三を概数として「何か月も続く」「今年の春3ヶ月間」「陰暦の三月まで」「去年の三月から今年の三月まで」とする解釈もある。[[松浦友久]]「烽火連三月―数詞の声調をめぐって」(『詩語の諸相-唐詩ノート-』所収、研文出版、1981年)に詳しい。</ref >になってものろし火([[安禄山の乱]]による'''戦火''')は消えることはなく、
|-
|'''家書抵萬金'''<br/><small>(jiā shū dǐ wàn jīn)</small>
224 ⟶ 147行目:
 
== 杜甫関連史跡 ==
* [[杜甫草堂博物館|成都杜甫草堂]]:杜甫は[[乾元 (唐)|乾元]]2年(759年)9月に華州より[[成都市|成都]]に到った。そこで支援者の援助を受けつつ、桃の木や竹などを植えた草堂を建築した。杜甫はこの草堂にて多くの詩作を行った。杜甫が作った本来の草堂はもう失われているが、その後、再建されたものが現在、博物館となり観光地となっている。現存する建物の多くは明の[[弘治 (明)|弘治]]13年([[1500年]])と清の[[嘉慶 (清)|嘉慶]]16年([[1811年]])の二度の大改修時のものである<ref>中国の名所旧跡に関しては葛暁音『中国名勝与歴史文化』(北京大学出版社、2001年)が詳しい。杜甫草堂に関しては387から389頁に記載される。成都杜甫草堂博物館のURLは[http://www.cddfct.com/main.html こちら](日本語版有) LINEトラベルの記事は[https://www.travel.co.jp/guide/article/16248/ こちら]</ref>
* [https://baike.baidu.com/item/杜公祠/8725284 杜公祠]:陝西省西安市長安区少陵原畔に位置する。
 
== 杜甫と松尾芭蕉の俳人への影響 ==
[[ファイル:Cao tang.jpg|thumb|270px|right|成都杜甫草堂内部]]
[[日本文学]]への影響<ref>松尾芭蕉以外の日本文学([[正岡子規]]、[[与謝蕪村]]等)への影響については、黒川洋一『杜甫 ビギナーズ・クラシックス』(角川ソフィア文庫、2012年)でも紹介している。</ref><ref>歌人の[[太田青丘]]『芭蕉と杜甫』にも詳しい(教養選書・[[法政大学出版局]]、のち「著作選集 第2巻」おうふう)</ref>[[漢詩与謝蕪村]]以外のジャンルにもあり、[[松尾芭蕉正岡子規]]はそ等への影響を受けた人の<ref>黒川洋人と考えら『杜甫 ビギナーズ・クラシックス』(角川ソフィア文庫、2012年)</ref>が指摘さている。芭蕉の「虚栗」の跋文に「李杜が心酒を嘗て」ということからも杜甫の愛読者であったことがうかがわれる。また、芭蕉の「憶老杜」と題する作に「髪風を吹いて暮秋嘆ずるは誰が子ぞ」は杜甫の「白帝城最高楼」の「藜を杖つき世を歎ずるは誰が子ぞ、泣血 空に迸りて 白頭を回らす」をふまえているされる<ref name=":1">吉川幸次郎「芭蕉と杜甫」(『吉川幸次郎全集』第十二巻、筑摩書房、1970年、710頁より)</ref>。臨終記録たる『花屋日記』<ref>[[小宮豊隆]]校訂本は文暁『花屋日記 芭蕉臨終記』([[小宮豊隆]]校訂、[[岩波文庫]]、新装復刊2017年</ref>によると、芭蕉の遺品に『杜子美詩集』があったとされている、『[[奥の細道]]』の一節には、
 
: ''さても義臣すぐつてこの城にこもり、功名一時のくさむらとなる。'''''国破れて山河あり、城春にして草青みたり'''''と、笠うち敷きて時の移るまで涙を落としはべりぬ。''
:  夏草や 兵どもが 夢のあと
 
と杜甫の「春望」を意識していることがうかがわれれる。黒川洋一は芭蕉は多くの句に杜甫の句を典故に用いたり、また、杜甫の句に暗示を受けて作った作があるとする<ref>黒川洋一『杜甫 下 中国詩人選集 10』(岩波書店、1959年、10頁)、上巻(岩波書店、1957年)では、芭蕉に影響を与えた句をその都度指摘している。</ref>。吉川幸次郎は、芭蕉と杜甫には単に類似の語がみられることにとどまらず、芭蕉が杜甫から得たものは「自然を単なる美としてとらえず、世界の象徴、ことに自己の生の象徴として感じ得たこと」と述べ、芭蕉の句は「生活の現実に触れた句」「芭蕉の内部にあるものを投影しようとして、外なる自然をとらえ得たと感ずる句」の二類に帰すると指摘し、そしてそれらは杜甫の句づくりに通ずるところがあると述べる<ref name=":1" />。
 
== パロディ ==
杜甫の画像は2012年から、中国語のサイトにおいてパロディの題材として広く用いられている。2012年3月21日、[[新浪微博]](中国版ツィッターとも言えるもの)で杜甫の画像のパロディがアップされ、大きな話題となり<ref name="认领">{{Citeweb|url=http://www.techweb.com.cn/internet/2012-03-31/1173885.shtml|title=“杜甫很忙”系人为策划 遭公关团队与新浪微博“认领”|date=2012-3-31|accessdate=2012-3-31|publisher=TechWeb.com.cn}}</ref>、その後、このパロディは成都[[杜甫草堂博物館]]による自己宣伝ではないかと疑われたが、成都杜甫草堂博物館の副館長はそれを否定した<ref name="cdrb">{{Citeweb|url=http://www.cdrb.com.cn/html/2012-03/30/content_1543623.htm|title=网上杜甫很忙 网下草堂很冤|date=2012-3-30|accessdate=2012-3-31|publisher=成都日报}}</ref>。
 
== 中国大陸・台湾で刊行の注釈等 ==
*張元済『宋本杜工部集』(全20冊、上海商務印書館、1957年)
: 上海図書館の所蔵する宋代の本を写真版によって原寸通りに覆印した。現存最古のテキストであり、字句また詩の配列、北宋の時代に編定された形をそのままに示し、しばしば後来の諸テキストの妄改を正している<ref>{{Cite book|title=杜甫詩注 第1冊|date=|year=2012年|publisher=岩波書店|last=吉川幸次郎}}</ref>。
*浦起竜『読杜心解』(全3冊、中華書局、初版1961年)
*王嗣奭『杜臆』(曹樹銘増校『杜臆増校』藝文印書館印行、1971年、台北)
*銭謙益『銭注杜詩』(全2冊、上海古籍出版社、1979年)
*仇兆鰲『杜詩詳註』(全5冊、[[中華書局]]、第一版1979年)
:最も代表的とされる版本。杜甫の使用する詩語の由来を網羅的に調査している。
*楊倫『杜詩鏡銓』(上海古籍出版社、1988年)
*林継中輯校『杜詩趙次公先後解輯校』(全2冊、上海古籍出版社、1994年)
*韓成武・張志民主編『杜甫詩全訳』(河北人民出版社、1997年)。仇兆鰲の配列順
*張志烈主編『(今注本)杜詩全集』(全4冊、天地出版社、1999年)。楊倫の配列順
*李濤松・李翼雲『全杜詩新釈』(全2冊、中国書店、2002年、北京)。仇兆鰲の配列順
*張忠綱編注『杜甫詩話六種校注』(斉魯書社、2002年)
: 杜甫の作品は収録されていないが、宋の蔡夢弼『杜工部草堂詩話』など6種類の詩話を収録している。
*宋開玉『杜詩釋地』山東大学文史哲研究院専刊(上海古籍出版社、2004年)杜甫の詩中に詠われる地名について網羅的に収録した注釈書の一種。
*陳冠明・孫愫婷『杜甫親眷交游行年考 : 外一種杜甫親眷交遊年表』(上海古籍出版社、2006年)杜甫と交友のあった人物について網羅的に収録した注釈書の一種。また、その交遊に関する年表も掲載される。
*張忠綱主編『杜甫大辞典』(山東教育出版、2009年)
*蕭滌非(主編)・張忠綱(全書終審統稿人)他『杜甫全集校注』(全12冊、[[人民文学出版社]]、2014年)。楊倫の配列順
*林継中『新訳杜詩青華』(全2冊、[[三民書局]]、2015年、台湾)。詩句に[[注音符号]]が付されている。
 
== 日本語訳注・評釈書 ==
* [[津坂東陽]]『杜律詳解』
*[[森槐南]]『杜詩講義』(全4巻、松岡秀明校訂、[[東洋文庫 (平凡社)|平凡社東洋文庫]]、1993年、ワイド版2009年)明治期の評釈書。 - 抄訳
*[[鈴木虎雄]]『杜甫全詩集』(全4冊、日本図書センター、1978年。『杜少陵詩集』1928~31年刊の復刻版)- '''全訳'''
*:〔仇兆鰲の配列順〕全詩に訳注が施された代表的な訳本の一冊。仇兆鰲の『杜詩詳注』に基本的には依拠しつつ、訳者自身の解釈も反映。
*鈴木虎雄『杜詩』(全8巻、[[岩波文庫]]、復刊1989年、2005年ほか)- 抄訳
*:元版は戦前刊の全訳・注解を、黒川洋一が補訳改訂。
*: [[清|清朝]]の[[乾隆帝]]の乾隆15年(1750年)に成立した勅撰詩集『[[唐宋詩醇]]』全47巻中の杜甫詩に訳注を施したもの。[[唐]]の[[李白]]、杜甫、[[韓愈]]、[[白居易]]、[[宋]]の[[蘇軾]]、[[陸游]]の六人の詩を選び、詩ごと、詩人ごとに評を付す。日本では李白、杜甫の部分だけ江戸時代に翻刻された<ref>[[近藤春雄]]『中国学芸大事典』(大修館書店、1992年、600頁</ref>。
*[[黒川洋一]]『杜甫 中国詩人選集』(岩波書店(上・下)、1957-59年、新版(全1巻)、1983年)- 抄訳
*[[目加田誠]]『杜甫 漢詩大系9』([[集英社]]、1965年)。新装版『杜甫 漢詩選9』(集英社、1996年)- 抄訳
*目加田誠『杜甫 中国詩人選3』(集英社、1966年)。新装版『杜甫 中国名詩鑑賞4』([[小沢書店]]、1996年)- 抄訳
*[[吉川幸次郎]]『杜甫 [[世界古典文学全集]]28・29』(筑摩書房、1967-72年、復刊1982年、2004年ほか)- 抄訳
*吉川幸次郎『杜甫詩注』(全5冊、[[筑摩書房]]、1977-83年)。逝去により5冊目中途で刊、下記は新訂版- 抄訳
*[[小野忍]]・[[小山正孝]]・佐藤保編訳『杜甫詩選』(全3巻、[[講談社]]学術文庫、1978年)- 抄訳
*黒川洋一『杜甫 鑑賞中国の古典17』([[角川書店]]、1987年)- 抄訳
*黒川洋一編訳『杜甫詩選』(岩波書店、1991年、ワイド版1994年)- 抄訳
*吉川幸次郎『杜甫詩注』([[興膳宏]]編、第1期・全10巻、[[岩波書店]]、2012-2016年)- 抄訳
*:弟子興膳宏らにより2012年より加筆修正が施され、遺稿を含め引き継ぎ第1期を出版。第2期・全10巻は時期未定
*『杜甫全詩訳注』(編者代表[[下定雅弘]]・[[松原朗]] 全4巻、[[講談社学術文庫]]、2016年6月-10月)- '''全訳'''
*:〔仇兆鰲の配列順〕最新の研究を反映しつつ、全詩に訳注を施した訳本。
*[[川合康三]]『[[新釈漢文大系]] 詩人篇 六・七 杜甫』([[明治書院]]、2019年5月-)全12巻(後者は未刊)- 抄訳
 
== 日本語での杜甫評伝・研究 ==
*『[[吉川幸次郎]]全集 第十二巻 杜甫篇』 [[筑摩書房]]、1968年、復刊1998年
:杜甫に関する論考集成、長年の杜甫研究を概観できる。補篇は第二十二・二十五・二十六巻に収録
:単著判は『杜甫私記』、『杜詩論集』、各・筑摩叢書。小著で『杜甫ノート』 [[新潮文庫]]、改版1970年
*[[目加田誠]]『杜甫物語 詩と生涯』 [[社会思想社]]<現代教養文庫>、1969年
:改訂版『著作集7 杜甫の詩と生涯』 龍渓書舎、1984年
*高木正一『杜甫』 [[中公新書]]、1969年
*福原龍蔵『杜甫 沈痛漂泊の詩聖』 [[講談社現代新書]]、1969年
*[[郭沫若]]『李白と杜甫』[[須田禎一]]訳、講談社、1972年
*[[黒川洋一]]『中国詩文選15 杜甫』 [[筑摩書房]]、1973年
*[[田中克己]]『杜甫伝』 [[講談社]]、1976年
*馮至『杜甫伝 詩と生涯』 橋川時雄訳、筑摩書房<筑摩叢書>、1977年、再版1983年
*黒川洋一『杜甫の研究』 [[創文社]]、1977年
*[[鈴木修次]]『杜甫 人と思想』 [[清水書院]]、1980年、新装版2014年
*和田利男『杜甫 生涯と文学』 めるくまーる社、1981年
*黒川洋一『杜詩とともに』 創文社、1982年。他の論考もある
*[[森野繁夫]]『中国の詩人7 杜甫』 [[集英社]]、1982年
*劉開揚『杜甫』 橋本堯訳、中国古典入門叢書:日中出版、1984年、再版1991年
*[[高島俊男]]『李白と杜甫』 講談社学術文庫、1997年。改訂版(旧版は評論社)
*黒川洋一『杜甫 中国の古典<ビギナーズ・クラシックス>』 福島理子編、[[角川ソフィア文庫]]、2005年
*古川末喜『杜甫農業詩研究 八世紀中国における農事と生活の歌』 [[知泉書館]]、2008年
*[[興膳宏]]『杜甫-憂愁の詩人を超えて』 [[岩波書店]]「書物誕生 あたらしい古典入門」、2009年
*宇野直人・聞き手[[江原正士]]『杜甫-偉大なる憂鬱』[[平凡社]]、2009年
*後藤秋正『東西南北の人―杜甫の詩と詩語』 [[研文出版]]、2011年
*後藤秋正『杜甫詩話―何れの日か是れ帰年ならん』 研文出版、2012年
*[[川合康三]]『杜甫』 [[岩波新書]]、2012年
*[[松原朗]]編『杜甫研究論集 生誕千三百年記念』 研文出版、2013年
*谷口真由美『杜甫の詩的葛藤と社会意識』 [[汲古書院]]、2013年
*古川末喜『杜甫の詩と生活―現代訓読文で読む』 知泉書館、2014年
*後藤秋正『花燃えんと欲す―続・杜甫詩話』 研文出版、2014年
*後藤秋正『「春望」の系譜―続々・杜甫詩話』 研文出版、2017年
*松原朗編『杜甫と玄宗皇帝の時代』 [[勉誠出版]]、2018年
*長谷部剛『杜甫詩文集の形成に関する文献学的研究』 関西大学出版部、2019年
*向島成美編『李白と杜甫の事典』 [[大修館書店]]、2019年
*日本杜甫学会編『杜甫研究年報』 勉誠出版
 
== 脚注 ==