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{{by|1950年}}8月31日の対[[アトランタ・ブレーブス|ボストン・ブレーブス]]戦では、9イニングでの達成としては[[ルー・ゲーリッグ]]に次ぐ史上2人目となる1試合4本塁打を記録。4本すべて違う投手から打ち、1本目は左腕最多の363勝を挙げ、[[アメリカ野球殿堂|殿堂]]入りした[[ウォーレン・スパーン]]から打った。この年も守備率(.993)と併殺(159)はリーグ1位で、併殺はナ・リーグ記録であった。翌{{by|1951年}}には171併殺で自ら更新し、ドジャース球団史上初の40本塁打を打つ。この記録は{{by|1953年}}にロイ・キャンパネラ(41本)に破られるが、{{by|1954年}}に42本で再び塗り替え、スナイダーが{{by|1956年}}に43本塁打を打つまで球団記録であった。ファンからも大きな支持を受け、本拠地[[エベッツ・フィールド]]で野次を受けることのない選手であった。
 
その後も活躍を続けるが、ワールドシリーズではいずれもヤンキースに1947年、1949年、1952年、[[1953年のワールドシリーズ|1953年]]と敗れてワールドチャンピオンにはなれずにいた。特に[[1952年のワールドシリーズ]]では21打数無安打に終わっていた。そして迎えた[[1955年のワールドシリーズ]]。第3戦までは12打数1安打に終わり、チームも1勝2敗。そこから持ち直し、第4戦で逆転本塁打とダメ押しタイムリーを打ち、第5戦でも先制本塁打を打ちチームを連勝に導く。3勝3敗で迎えた第7戦では1-0とリードした4回表に先制の適時打、6回表に追加点となる牲フライでピ飛を放ち、この2点を先発の[[ジョニー・ウィー・リーポドレを還し、]]が守り2-0勝利、そしてワールドシリーズ制覇に貢献。当時、この年初めて制定されたワールドシリーズMVPはなかポドレスに譲ったが、あればMVP級の活躍であった。{{by|1956年}}もリーグ優勝を果たすが、[[1956年のワールドシリーズ|ワールドシリーズ]]では[[ドン・ラーセン]]の[[完全試合]]もあってヤンキースに苦杯を飲まされる。この年、ドジャースが[[日米野球]]で訪日。第1戦となった対[[読売ジャイアンツ|巨人]]戦では[[堀内庄]]から、ジャッキー・ロビンソンに続いて[[後楽園球場]]のレフト場外に場外本塁打を打った。この打球は[[白山通り]]まで飛んだとも言われ、事実だとすれば200mは飛んだことになるが、打たれた堀内が「あの一打を打たれたことは名誉」と語っていた<ref>週刊ベースボール・1月14日増刊号 ’88大リーグ総集編、[[ベースボール・マガジン社]]、1989年、58頁</ref>。
 
{{by|1957年}}にはナ・リーグ記録となる通算12本目の満塁本塁打を打つ(後に通算満塁本塁打は14本まで伸ばし、ナ・リーグ記録は{{by|1974年}}まで持っていた)。この年、自身最後の[[1957年のMLBオールスターゲーム|MLBオールスターゲーム]]に出場した。また、この年から表彰されるようになった[[ゴールドグラブ賞]]に選ばれ、以後3年連続で受賞。{{by|1958年}}にドジャースは[[ロサンゼルス]]に移転。この年、ナ・リーグ史上7人目の通算300号本塁打を達成。{{by|1959年}}にはリーグ優勝し、[[1959年のワールドシリーズ|ワールドシリーズ]]でも[[シカゴ・ホワイトソックス]]を破ってワールドチャンピオンに輝く。