「上之宮遺跡」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
画像追加、文化財節追加。
→‎概要: 追記。
5行目:
[[1986年]]、桜井市南部の[[寺川 (奈良県)|寺川]]西岸の[[河岸段丘]]上の土地を区画整理する際に調査が行われた。
 
遺跡全体を4つの時期に分けて考えることができ、3期以降は居館として整備されていたことが示されている。中央部に四面廂付の大型建築物の遺構があり、北側に長棟の脇殿を配し、東側と南側を柵列で囲み、それぞれに門が備えられている。西側は祭祀機能の付いた庭園になっており、北側の正面から三輪山が見える構図になっている。西側と北側には石溝が走っており、後に東側や南側にも溝が設けられたことが確認できる。庭園部分から木簡が出土している。鼈甲や木器、果実の種なども出土しており、貴人の邸宅跡と考えられている。ただし、園地遺構ではなく水源祭祀場の遺構とする説もある<ref>[[河上邦彦]]『飛鳥発掘物語』扶桑社、2004年、pp. 306-308。</ref>
 
なお、「上之宮」の地名は[[聖徳太子]]が幼い時に過ごした宮殿・上宮にちなむという説があり、上之宮遺跡と聖徳太子との関連性を指摘する説もあるが、。ただし『[[日本書紀]]』などの史書類には在はしていない[[磐余池]]のほとりに[[用明天皇]]の[[磐余池辺雙槻宮]]がありその南隣に息子の聖徳太子の上宮はその南隣にあったとされているためおり、磐余池の所在地が確定しない限り肯定も否定も出来ないとされている。また、[[阿倍氏]]など周辺地域を拠点に持つ豪族の邸宅である可能性もある。
 
== 文化財 ==