「プロコピウス」の版間の差分

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プロコピウスは[[キリキア]]の良い家柄に生まれたとされる<ref name="尚樹1999p63">[[#尚樹1999|尚樹1999]]、p.63。</ref>。初めはローマ皇帝[[コンスタンティウス2世]]の下で[[トリブヌス・ミリトゥム]]を務め、その後は[[ユリアヌス]]の下で[[マギステル・ミリトゥム]]を務めた。プロコピウスはユリアヌスの従兄弟であったことに加えユリアヌスと同様に[[古代ギリシア]]・[[古代ローマ]]の伝統宗教を信仰していたこともあり、ユリアヌスとは特に親しい間柄だった。そのためプロコピウスは多くの人々からユリアヌスの後継者と考えられており<ref name="ギボン1952p84" />、[[363年]]にユリアヌスが[[ササン朝]]との戦いで戦死したときには、プロコピウスが事前にユリアヌスから後継者に指名されていたという噂が流れるほどだった。しかしユリアヌスの戦死後、コンスタンティウス2世に取り立てられた将軍たちとユリアヌスによって取り立てられた将軍たちとの主導権争いの妥協案として[[ヨウィアヌス]]がローマ皇帝に選出されると、プロコピウスはヨウィアヌスから競争者とみなされることを警戒して自ら引退を願い出た<ref name="ギボン1952p84" /><ref name="南川2013p145">[[#南川2013|南川2013]]、p.145。</ref>。ローマ皇帝と宣言された[[ヨウィアヌス]]は間もなく死亡し、[[364年]]初頭、今度は[[ウァレンティニアヌス1世]]がローマ皇帝に選出された<ref name="尚樹1999pp62-63">[[#尚樹1999|尚樹1999]]、pp.62-63。</ref>。
 
ウァレンティニアヌス1世は実弟の[[ウァレンス]]を共同皇帝に取り立ててウァレンスに東方領土を任せたが、ウァレンスは新皇帝の実弟であるという以外には全く目立ったところのない下級士官で<ref name="尚樹1999p63" /><ref name="南川2013p144">[[#南川2013|南川2013]]、p.144。</ref>、ウァレンスのローマ皇帝への抜擢は正当性に乏しかった{{Refnest|group="注"|ウァレンティニアヌス1世が弟ウァレンスを取り立てようと周囲に諮ったとき、軍団の重鎮だった[[ゲルマン人]]{{仮リンク|ダガライフス (366年の執政官)|en|Dagalaiphus (consul 366)|label=ダガライフス}}は「ご家族のことだけを考えるならば陛下には御令弟がおられます。しかし国家のことを考えられるならば誰か別の人を探されますように」と応じたという<ref name="ギボン1952p82">[[#ギボン1952|ギボン1952]]、p.82。</ref>。なお、助言したとされるダガライフスの血筋は子のダガライフス([[350年]]生誕)、孫のダガライフス([[375年]]生誕)、曾孫の娘(名前不詳。[[405年]]生誕)と続き、曾孫の娘がフラウィウス・アレオビンドゥス([[400年]] - [[439年]]以降。[[434年]]の[[執政官]])と結婚し、フラウィウス・ダガライフス([[430年]] - [[475年]]以降。[[461年]]の執政官)を儲けた(ダガライフスの玄孫)。フラウィウス・ダガライフスは[[5世紀]]の[[東ローマ帝国]]の実力者[[アスパル]]の内孫ゴディステア([[445年]]生誕)と結婚、息子にフラウィウス・アレオビンドゥス・ダガライフス([[460年]] - [[512年]])がいる(ダガライフスの来孫)。来孫フラウィウス・アレオビンドゥス・ダガライフスの結婚相手はアニキア・ユリアナ([[462年]]生誕)で、ウァレンティニアヌス1世の来孫にあたる女性だった。これにより結果的ではあるがダガライフスとウァレンティニアヌス1世の来孫同士が結婚した形となり、双方の家系が合体している。フラウィス・アレオビンドゥス・ダガライフスとアニキア・ユリアナとの間には2男が生まれた(一説に女子もいたという)。2人の血筋と子孫は大いに繁栄し、東ローマ皇帝や西ゴート王などの著名な人物を輩出し続けた。}}。そのためウァレンスは不人気な皇帝で<ref name="南川2013p144" />、プロコピウスが既に[[カッパドキア]]の[[カイセリ|カエサリア]]で隠棲していたにもかかわらず<ref name="尚樹1999p63" /><ref name="南川2013p144" /><ref name="ギボン1952p84">[[#ギボン1952|ギボン1952]]、p.84。</ref>、ウァレンスはプロコピウスの人気を警戒してプロコピウスの逮捕を命じた<ref name="ギボン1952p84" />。追っ手を差し向けられたプロコピウスは[[コンスタンティノープル]]へと逃亡し、ゴート人の守備隊によって迎え入れられた{{Refnest|group="注"|[[332年]]に[[コンスタンティヌス1世]]が[[ゴート人]]の指導者{{仮リンク|アリアリック|en|Ariaric}}と同盟を結んで以降、ゴート人はコンスタンティノープルに守備隊を提供するようになった<ref name="ギアリ2008p120">{{Cite book|和書|author=[[パトリック・J・ギアリ]]|editor=[[鈴木道也]]・[[小川知幸]]・[[長谷川宜之]]|year=2008|title=ネイションという神話 ヨーロッパ諸国家の中世的起源|publisher=[[白水社]]|isbn=9784560026328|page=120}}</ref>。コンスタンティヌス1世はコンスタンティノープルにアリアリックの息子{{仮リンク|アオリック|en|Aoric}}を祝福する像を建ててゴート人への感謝と友好の気持ちを示した<ref name="ギアリ2008p120" />。プロコピウスはコンスタンティヌス家の一員と見なされていたので、こうしてコンスタンティヌス1世が築いたゴート人との関係を利用することができた<ref name="ギアリ2008p120" /><ref name="南川2013p146" />。プロコピウスに援軍を提供したアタナリックはアオリックの息子である。}}<ref name="南川2013p145" />。プロコピウスはコンスタンティノープルで軍団の歓呼を受け、[[365年]][[9月28日]]に[[元老院 (ローマ)#コンスタンティノポリス元老院|コンスタンティノープル元老院]]からローマ皇帝と宣言された。コンスタンティノープル元老院がプロコピウスを皇帝と宣言した場には[[コンスタンティウス2世]]の妻{{仮リンク|ファウスティナ (4世紀の皇后)|en|Faustina (empress)|label=ファウスティナ}}と彼女の娘{{仮リンク|コンスタンティア|en|Flavia Maxima Constantia}}も同席しており、当時プロコピウスが[[コンスタンティヌス朝|コンスタンティヌス家]]の正当な相続人であると認識されていたことを示唆している。
 
ローマ皇帝と宣言されたプロコピウスはコンスタンティヌス家の相続人であることを利用してゴート人の指導者{{仮リンク|アタナリック|en|Athanaric}}<ref group="注">アオリックの息子。</ref>から3000人の援軍を受け<ref name="南川2013p146" /><ref name="尚樹1999p65">[[#尚樹1999|尚樹1999]]、p.65。</ref><ref name="ギボン1952p86">[[#ギボン1952|ギボン1952]]、p.86。</ref>、瞬く間に[[トラキア]]と[[ビテュニア]]を支配下におさめた。しかし[[アラマンニ人]]の将軍{{仮リンク|ゴモアリウス|en|Gomoarius}}の裏切りにあって[[ティアティラ]]や{{仮リンク|ナコレイア|en|Nakoleia}}の会戦でウァレンスに敗北し、後に捕らえられて[[366年]][[5月27日]]に処刑された<ref name="尚樹1999p63" /><ref name="南川2013p146">[[#南川2013|南川2013]]、p.146。</ref>。プロコピウスの死後にはプロコピウスの支持者の一人{{仮リンク|マルケルス (366年のローマ皇帝)|en|Marcellus (usurper)|label=マルケルス}}がローマ皇帝を名乗ってウァレンスに抵抗したが、マルケルスも同年中に捕らえられて処刑された。その後しばらくアタナリックがウァレンスと争っていたが、[[369年]]にウァレンスよりアタナリックに有利な条件が提示され、アタナリックもウァレンスとの講和に応じた。