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1912年、[[斎藤茂吉]]の[[青山脳病院]]に入院していた安野助多郎が縊死。安野は、清造の代表作となった『根津権現裏』の岡田のモデルであると言われる。
 
1920年、『演芸画報』発行元の演芸倶楽部を退社し、[[小山内薫]]の紹介で[[松竹キネマ]]に入社するも、翌21年、経費削減を理由に[[馘首]]([[解雇]])される。松竹キネマを退社後、[[大阪府]]西成郡中津町に住んでいた兄信治郎のもとに身を寄せ、「根津権現裏」を執筆する。小山内の紹介で劇作家協会常任幹事となり、1922年にはやはり小山内の世話で[[プラトン社]]の非常勤編集者の職を得る。
 
1922年4月、友人の[[三上於菟吉]]の世話で長編小説『[{{NDLDC|970103}} 根津権現裏]』を日本図書出版株式会社から刊行する。後に精神に異常をきたし、失踪を繰り返した末、1932年1月29日早朝、芝区[[芝公園]]内の六角堂内で凍死体となって発見され、身元不明の[[行旅死亡人]]として火葬される。その後、履いていた靴に打たれた本郷警察署の焼印が元で、[[久保田万太郎]]によって清造の遺体と確認された。戒名は清光院春誉一道居士<ref>大塚英良『文学者掃苔録図書館』(原書房、2015年)203頁</ref>。