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|title = $1.35 trillion tax cut becomes law
|accessdate = 2007-10-21
}}</ref>、2002年には全国一斉学力テストを義務化して成績次第で助成金とペナルティを学校に課す「[[落ちこぼれを作らないための初等中等教育法]]」(通称:落ちこぼれゼロ法([[:en:No Child Left Behind Act|No Child Left Behind Act]])<ref>[{{Cite web |url=http://wwwhakusyo.mhlw.go.jp/wpdocs/hpyi200501/b0057.html |title=海外情勢報告(特集 諸外国における若年雇用・能力開発対策)]{{リンク切れ |dateaccessdate=2017201210524日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130105215805/http://wwwhakusyo.mhlw.go.jp/wpdocs/hpyi200501/b0057.html |archivedate=2013年1月5日 |deadlinkdate=2020年2月 }}</ref>」に署名した。
 
2001年9月に発生した[[アメリカ同時多発テロ事件|同時多発テロ事件]]後、ブッシュは世界的な「[[対テロ戦争|テロとの戦い]]」を発表し、そして[[アフガニスタン紛争 (2001年-)|アフガン侵攻]]に臨み、[[ターリバーン]]政権を倒し[[アルカーイダ]]を壊滅させて、[[ウサーマ・ビン・ラーディン]]を[[デッド・オア・アライブ]]<ref>[http://abcnews.go.com/US/story?id=92483 Bush: Bin Laden Wanted Dead or Alive - ABC News]</ref> として[[逮捕]]あるいは殺害することを命じた。2003年3月にブッシュはイラク侵攻を命じ、「[[イラク]]が[[国際連合安全保障理事会決議1441]]に違反しており、戦争がアメリカ合衆国の保護のために必要だった」と主張した<ref>{{cite web|url=http://georgewbush-whitehouse.archives.gov/news/releases/2003/03/20030319-1.html|title=March 18, 2003 Presidential Letter|publisher=Whitehouse.gov|accessdate=2006-05-25}}</ref><ref>{{cite web|url=http://georgewbush-whitehouse.archives.gov/news/releases/2003/02/20030205-1.html|year=February 5, 2003|title=U.S. Secretary of State Colin Powell Addresses the U.N. Security Council|first=Colin|last=Powell|publisher=Whitehouse.gov|accessdate=2006-05-25}}</ref>。
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|date= 2005-06-17
|accessdate = 2007-07-05
}}</ref>。大学時代は当初[[野球]]部で投手だったが、才能に限界を感じて3年から[[ラグビー]]部へ移り、4年でレギュラーになった<ref>[{{Cite web |url=http://japan2.usembassy.gov/j/p/tpj-j072.html |title=Embassy of the United States Tokyo, Japan - 米国政府] |accessdate=2013年1月19日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130309214223/http://japan2.usembassy.gov/j/p/tpj-j072.html |archivedate=2013年3月9日 |deadlinkdate=2020年2月 }}</ref>。
 
1968年5月に進行していた[[ベトナム戦争]]のまっただ中に、ブッシュは適性検査の筆記試験で、下から25番目の成績だったにもかかわらず<ref name="United States Department of Defense">{{cite news
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|archivedate = 2007年9月30日
|deadurldate = 2017年9月
}}</ref><ref>[{{Cite web |url=http://www.icodap.org/papers/AFHRL/AFHRL-TR-69-103.pdf |title=The Innovation Center for Occupational Data, Applications and Practices:Interpretation and Utilization of Scores on the Air Force Officer Qualifying Test]{{リンク切れ |dateaccessdate=2017200791218日 |botarchiveurl=InternetArchiveBothttps://web.archive.org/web/20071130205930/http://www.icodap.org/papers/AFHRL/AFHRL-TR-69-103.pdf |archivedate=2007年11月30日 |deadlinkdate=2020年2月 }}</ref>、合格の最低点だったが<ref name="Romano p. A08">{{cite web
|url = http://www.washingtonpost.com/ac2/wp-dyn/A7372-2004Feb2?language=printer
|title = Bush's Guard Service In Question
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|date = 2002-08-19
|accessdate = 2007-01-21
|archiveurl = https://web.archive.org/web/20071211152105/http://www.makethemaccountable.com/tax/SaleOfBaseballTeam.htm
|archivedate = 2007年12月11日
|deadlinkdate = 2020年2月
}}</ref>。
 
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2008年12月14日、退任末期のブッシュはイラク首相[[ヌーリー・マーリキー]]との共同会見中、取材していたイラク人記者[[ムンタゼル・アル=ザイディ|ムンタゼル・ザイディー]]([[:en:Muntadhar al Zaidi|Muntadhar al Zaidi]])から履いていた左右の靴を投げつけられた。ブッシュは身をすくめてかわし、直後にザイディは取り押さえられた。同日の夜、イラクのニュース番組でこの映像が流れると、エジプトの民間衛星テレビ局の女性アナウンサーがこの記者を「英雄」と呼び、また数千人の市民が[[犯人]]の[[保釈|釈放]]を求めデモを起こした。当のブッシュは靴を投げつけられた直後「今の靴のサイズは10だったよ」とジョークを飛ばす余裕を見せ、「私に靴が投げつけられたからといって、何だ?」「(イラクが)自由な社会になった証だよ」と締めくくった。
 
2009年1月14日、ブッシュは「米国の真の友人であり、歴史的な挑戦に対して不屈の精神で対処した」として[[トニー・ブレア]](元[[イギリスの首相|イギリス首相]])、[[ジョン・ハワード]](元[[オーストラリアの首相|オーストラリア首相]])、[[アルバロ・ウリベ]]([[コロンビア]]大統領)の3人に[[大統領自由勲章]]を授与した。なお、[[小泉純一郎]]ら日本の政治家は選から漏れた<ref>[http://www.jiji.com/jc/a/err/b/jc/a?g=afp_int&k=20090114020735a ブレア、ハワード、ウリベの3氏に自由勲章]{{リンク切れ|date=2009年5月}}時事通信、2009年1月14日</ref><ref>[http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/world/asia/212278/ ブレア氏ら3人に最高勲章 ブッシュ米大統領] {{Wayback|url=http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/world/asia/212278/ |date=20100528154129 }} 産経新聞、2009年1月14日</ref>。
 
{{要出典範囲|date=2015年10月20日 (火) 07:28 (UTC)|大統領退任直前のインタビューや演説では8年に渡る政権期間を述懐。「私は常に、米国にとって最良の道を考えて行動してきた。自分の良心に従い、正しいと考えることをやってきた」と強調する一方、「私の政権の期間中、最も遺憾だったのが、イラクの大量破壊兵器に関する情報活動の失敗だった」「私の物言いには一部、誤りもあった。それは明らかだ」「歴代大統領と同じように失敗も経験した。やり直すチャンスがあれば違うやり方をしていたと思われることもある」と述べ自身の政策に対する後悔の念を事実上認める発言を行った。}}
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2009年11月上旬に大統領辞任後の初来日を行い、かつての盟友・小泉純一郎元首相と再会したほか[[東京ドーム]]で行われた日本シリーズの[[始球式]]に参加した。
 
[[2010年]][[11月9日]]に大統領在任中に下した様々な決断を振り返った回顧録(タイトル:“[[Decision Points]]”、邦題:『決断のとき』<ref>日本では、2011年4月23日に[[日本経済新聞出版社]]より刊行。</ref>)が出版された<ref>{{cite news|url=http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20100428-OYT1T00895.htm|title=ブッシュ前大統領が回顧録、11月に出版|work=YOMIURI ONLINE|publisher=[[読売新聞]]|date=2010-04-28|accessdate=2010-04-28|publication-date=|archiveurl=https://web.archive.org/web/20100430142844/http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20100428-OYT1T00895.htm|archivedate=2010年4月30日}}</ref>。回顧録は自身の飲酒運転トラブルやイラク戦争の決断も詳しく語られた内容となっている。しかし、本書に関して他の著作本からの剽窃・盗作の疑惑が報じられている<ref>[http://www.huffingtonpost.com/2010/11/12/george-bush-book-decision-points_n_782731.html#s180908 George Bush Book 'Decision Points' Lifted From Advisers' Books] THE HUFFINGTON POST 11-12-10 01:48 PM</ref>。
 
2011年4月より、[[日本経済新聞]]で連載されている自身の半生を綴った『[[私の履歴書]]』の執筆を担当し、原稿料は全額[[東日本大震災]]による震災孤児を支援するため、[[あしなが育英会]]に寄付した<ref>[http://www.ashinaga.org/news/press/entry-420.html 第43代アメリカ合衆国大統領 ジョージ・W・ブッシュ氏があしなが育英会に寄付―前駐日大使シーファー氏の勧めで―](2011年11月21日、あしなが育英会プレスリリース)</ref>。
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およびこの戦争では、[[バグダード]]が占領される前より、占領した後に死傷した兵士の数の方が多い。戦車や戦闘機など大掛かりな兵器を早々に手放して兵力を温存させ、隠しておいた[[手榴弾]]や小型爆弾のような小型の兵器、あるいは地雷などを流用した[[即席爆発装置]]を使って[[ゲリラ戦]]に持ち込まれたことがその要因である。[[イラク治安部隊|イラク軍]]内では開戦前からそのような方法が研究されていたにもかかわらず、情報を見過ごしていた、あるいは過小評価していたことが要因である。これは完全に先見の明がなかったことをあらわしている。
-->
:英歴史家のポール・ケネディは読売新聞紙上に載せたコラムで、[[第二次世界大戦]]の二人の指導者、[[フランクリン・ルーズベルト]]が小児マヒでありながら国外の戦略会議に3回出席したことやポツダム宣言で果たした役割、さらに[[ウィンストン・チャーチル]]が主要な戦場に何回も足を運んだことを指摘し、一方のブッシュが開戦から5年の間にイラクに訪問したのはいずれも数時間足らずで合計するとイラクに居たのは一日にも満たないと両者を対比しながら述べている。またブッシュは石油の利権を手に入れた事でそのあがり<ref>[{{Cite web |url=http://www.creative.co.jp/top/main318.html] |title=アーカイブされたコピー |accessdate=2009年8月1日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20050208225823/http://www.creative.co.jp/top/main318.html |archivedate=2005年2月8日 |deadlinkdate=2020年2月 }}</ref> となる、ブッシュ大統領の要請から17億ドル減額したものの186億ドル(約2兆460億円)のイラク復興支援の予算案を議会は可決した<ref>[{{Cite web |url=http://www2.asahi.com/special/iraqrecovery/TKY200311040112.html] |title=アーカイブされたコピー |accessdate=2009年6月23日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20090713025110/http://www2.asahi.com/special/iraqrecovery/TKY200311040112.html |archivedate=2009年7月13日 |deadlinkdate=2020年2月 }}</ref>。
 
:ブッシュは「イラク撤退はベトナムの二の舞いになる、米軍撤退は米国の信頼性を傷つけ、テロリストを勢いづかせる」と主張した<ref>[[ベトナム戦争]]では米軍撤退後に隙を狙った[[ベトナム民主共和国|北ベトナム]]がサイゴンを陥落させ、[[ベトナム]]でもアメリカ軍に協力した[[南ベトナム]]の市民は北ベトナム政府によって[[強制収容所]]に送られ[[虐殺]][[拷問]]とひどい扱いを受けた。</ref><ref>[http://www.biglizards.net/strawberryblog/archives/2007/08/post_524.html]</ref>。
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:しかし復興支援を出しても絶えない宗派対立で、毎日60人近くの死者が出るような[[自爆テロ]]と、それを米軍とイラク軍が発砲し、イラク戦争の死者は10万人まで増加してしまい、結局イラク国民の間に根深い[[反米]]感情を残し[[ブッシュの靴|靴投げ事件]]のさいには、犯人の男に対する同情や駐留米軍に対する抗議の声が民衆から聞かれた。
 
:ブッシュがフセインを打倒した事により、これまでフセイン政権に怯えていた[[シーア派]]と[[スンナ派]]とクルド人が[[石油]]の利権また[[政権]]争いのために対立が激化してしまい、皮肉にもフセインの[[恐怖政治]]が宗派・民族対立を押さえ込んでいたことが明白になった。[[トルコ]]の[[アブドゥラー・ギュル]][[トルコの首相|首相]]はイラク戦争は泥沼化すると予想しており、イラクを『'''パンドラの箱'''』と揶揄していた。ブッシュ退任後は都市部から撤退した米軍の復帰を求める声すら聞かれている<ref>[http://mainichi.jp/select/world/news/20090821k0000e030055000c.html イラク:テロ犠牲者100人超える 治安体制に批判の声]{{リンク切れ|date=2020年2月 |bot=InternetArchiveBot }}</ref>。イラク侵攻でブッシュの支持率は低下したと言われているものの、クリントン政権時代でもイラクを敵視し空爆をしており、結局、フセインはブッシュだけでなくクリントンからも敵視されていた。
 
:ブッシュは石油の利権を狙うためにイラクへ侵略したと酷評されているが、伝記映画『ブッシュ』でも、ブッシュが石油の利権を狙う様子が描かれており、父ブッシュが打倒出来なかったフセインに石油の利権を持たれている事が痛恨であるように描かれている。
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:小泉純一郎の[[内閣総理大臣|首相]]在任中には個人的な繋がりをアピールし、「ジョージ」、「純一郎」と呼び合うほどの仲であった。2006年6月に小泉が訪米した際には、ワシントンD.C.から、小泉がファンである[[エルヴィス・プレスリー]]の自宅兼[[博物館]]のある[[メンフィス (テネシー州)|メンフィス]]まで[[エアフォースワン]]で同乗し、プレスリーの自宅を自分の妻とプレスリーの元妻とその娘との4人で案内するなどした。
:その一方で、[[在日米軍|在日米軍基地]][[在日米軍再編|再編]]や[[米国産牛肉]]の輸入問題などで日米両政府の見解が一致しない政策もある。また、後半には核施設の無力化のみを条件に北朝鮮に対して妥協するなど、拉致問題で対北朝鮮強硬姿勢を取る日本との歩調のズレが目立った。
:アメリカの歴代政権は同盟国である日本の常任理事国入り自体には積極的な支援を表明してきたものの、2005年7月に入って日本が常任理事国入りの手段とするG4案への「ノー」を断固として表明した。日本だけでなく[[ドイツ]]や[[ブラジル]]、[[インド]]が常任理事国になるというG4案は安保理全体の大幅拡大が前提であり、ドイツの[[ゲアハルト・シュレーダー]][[政権]]がイラク問題その他で一貫してアメリカの方針に反対してきたためかアメリカはG4案には正面から反対した<ref>[{{Cite web |url=http://www.nikkeibp.co.jp/sj/2/column/i/12/index.html] |title=アーカイブされたコピー |accessdate=2010年5月10日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130515103618/http://www.nikkeibp.co.jp/sj/2/column/i/12/index.html |archivedate=2013年5月15日 |deadlinkdate=2020年2月 }}</ref>。
:2007年8月、アメリカ中西部[[ミズーリ州]]の[[カンザスシティ (ミズーリ州)|カンザスシティ]]で行った演説において、「敵は自由を嫌い、アメリカや[[西ヨーロッパ|西欧]]諸国が自分たちをさげすんでいることに怒りを抱き、大虐殺を産み出した自殺的な攻撃を繰り広げました。どこかで聞いた話のようですが、私が述べる敵とは、[[アルカーイダ]]ではなく、9.11テロでもなく、[[ウサーマ・ビン・ラーディン]]でもなく、パールハーバー(真珠湾)を攻撃した1940年代の[[大日本帝国]]の軍隊のことです」。[[第二次世界大戦]]前の日本について「[[民主主義]]は日本では決して機能せず、[[日本人]]もそう思っているといわれてきたし、実際に多くの日本人も同じことを信じていました。民主主義は機能しないと」、「日本の[[国教]]である「[[神道]]」があまりに狂信的で、[[天皇]]に根ざしていることから、民主主義は日本では成功し得ないという批判もあった」と述べている<ref>http://www.j-cast.com/2007/08/27010694.html</ref>。
:2009年1月14日、退任直前にブッシュは盟友としてトニー・ブレアらに大統領自由勲章を授与したが、日本の政治家には贈られていない。大統領退任後の、2009年11月3日、日本シリーズ第3戦(巨人-日本ハム)で巨人の黒のジャンパーを着て、笑顔で1球を投じた。小泉純一郎元首相、ジョン・ルース駐日米大使、前駐米大使の加藤良三コミッショナー、王貞治コミッショナー特別顧問らと観戦した。
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;北朝鮮
:大統領就任前のブッシュは北朝鮮問題に関心も知識も乏しかった。2000年6月の大統領候補時代に、友人である[[サウジアラビア]]の[[バンダル・ビン・スルターン]][[サウジアラビアの国王一覧|王子]]と会談した際、「なぜ自分が北朝鮮のことを心配しなければならないのか?」とこぼして、王子に「北朝鮮の国境付近には3万8,000人のアメリカ兵が駐留しているため、北朝鮮が国境を越えて侵攻すればおそらく1万5000人が戦死して、合衆国は途端に戦争へ突入するからです」と諭されている<ref>[[ボブ・ウッドワード]]『State of Denial:Bush at War, Part III』</ref>。就任後はクリントン政権の宥和策に反対してきた[[共和党 (アメリカ)|共和党]]の姿勢に沿って、「[[悪の枢軸]]」として批判を行うなど強硬姿勢を取っている。[[北朝鮮による日本人拉致問題|日本人拉致問題]]についても、2006年に渡米した横田夫妻ら被害者家族との面会時に断固たる姿勢で望む事を表明していた。
:しかし、[[北朝鮮の核実験 (2006年)|北朝鮮の核実験]]実施や他の外交政策の不振から、「核施設の無能力化を進めれば、拉致問題の進展とは関係なく、[[テロ支援国家]]指定を解除する」との立場を北朝鮮に伝えていたことが明らかになっている<ref>{{Cite web |url=http://www.yomiuri.co.jp/feature/fe7000/news/20070811i101.htm |title=アーカイブされたコピー |accessdate=2007年10月21日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20071029025545/http://www.yomiuri.co.jp/feature/fe7000/news/20070811i101.htm |archivedate=2007年10月29日 |deadlinkdate=2020年2月 }}</ref>。北朝鮮と[[中朝友好協力相互援助条約|同盟関係]]にある中華人民共和国はイラク戦争開戦による衝撃から仲介に乗り出して[[六カ国協議]]が始まり<ref>寺林裕介 「{{PDF|[http://www.sangiin.go.jp/japanese/annai/chousa/rippou_chousa/backnumber/2006pdf/2006070773.pdf 北朝鮮の核開発問題と六者会合(上)-北東アジアにおける多国間枠組みの形成]}}」</ref>、核兵器の放棄が合意された。2007年2月13日の六カ国協議での合意に基づき、2008年6月の北朝鮮の[[寧辺核施設]]の爆破パフォーマンスや核開発計画申告などを受けて指定解除の手続きを開始、拉致問題については引き続き解決への協力姿勢を表明しているものの、被害者家族からは先の面会時からの豹変振りに「裏切られた」と失望の声が挙がっていた。
:だが、土壇場の8月11日、「しっかりとした(核施設の)検証体制を示さない」ことを理由に北朝鮮のテロ支援国家指定解除の発令に対する署名を拒否した。そもそも6月26日の指定解除手続きに関する発表<ref>http://georgewbush-whitehouse.archives.gov/news/releases/2008/06/20080626-9.html</ref> では、同時に北朝鮮および北朝鮮の国民に関する確定的な(移動)制限を継続することについての大統領令(Executive Order:Continuing Certain Restrictions with Respect to North Korea and North Korean Nationals)<ref>http://georgewbush-whitehouse.archives.gov/news/releases/2008/06/20080626-4.html</ref> も発表しており、この時点で北朝鮮による手続きが履行されても不履行であっても、対北朝鮮制裁を解除する意志がなかったことが、この大統領令の存在から明らかになっている。オバマ政権に交代後の2009年4月、北朝鮮は核兵器開発の再開と六カ国協議からの離脱を表明することとなった。
:[[2005年]]に[[脱北者]]の[[姜哲煥]]をホワイトハウスに招待している。
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:イラク戦争が末期に入った2006年[[11月17日]]、[[ベトナム]]の[[グエン・ミン・チェット]][[ベトナム社会主義共和国主席|国家主席]]と米国の子ブッシュ大統領が[[ハノイ]]で会談し、ベトナムとアメリカの友好関係を誇示した。これは、冷戦後の「米越同盟」の強化と、後に「[[VISTA]]」の一角と呼ばれるようになったベトナムの[[経済成長]]を布告するものになった。
;フィリピン
:2008年に[[フィリピン]]に対し食料価格高騰や台風6号の被害に苦しむ同国民を助けるため、米海軍の原子力空母[[ロナルド・レーガン]]を被災地に派遣し、食料支援を行った。子ブッシュ大統領は会談後、台風の犠牲者らに弔意を表明。[[グロリア・アロヨ]][[フィリピンの大統領|大統領]]が[[モロ・イスラム解放戦線]](MILF)や[[イスラーム過激派]][[アブ・サヤフ]]などの反政府勢力に対し、対話と圧力による硬軟両様のテロ対策を進め、効果を上げていると評価した<ref>[{{Cite web |url=http://sankei.jp.msn.com/world/america/080625/amr0806251038004-n1.htm] |title=アーカイブされたコピー |accessdate=2009年5月3日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20080628104333/http://sankei.jp.msn.com/world/america/080625/amr0806251038004-n1.htm |archivedate=2008年6月28日 |deadlinkdate=2020年2月 }}</ref>。またフィリピンはイラク戦争に仏独中露が反対する中で数少なく支持した国である。
;メキシコ
:隣国で強い経済的関係を持つ[[メキシコ]]に対しては強い親近感を示し、これまでの歴代大統領は就任後初の訪問国として[[カナダ]]を訪れていたが、子ブッシュは就任後初の訪問国としてメキシコを訪れている。なお、この様なメキシコに対する親近感には、テキサス州知事選挙をはじめとする過去の選挙戦において、テキサス州で多くの票を持つメキシコ系アメリカ人からの支持を受けていたことが強く影響していると言われている