「陸奥 (戦艦)」の版間の差分

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[[1943年]](昭和18年)4月18日は[[山本五十六]]連合艦隊司令長官が戦死([[海軍甲事件]]、6月5日に[[日比谷公園]]で国葬){{Sfn|大本営海軍部|1982|pp=136-140|ps=山本連合艦隊司令長官の戦死}}、[[アッツ島の戦い|アッツ島玉砕]]など暗いニュースが連続しており、国民に親しまれた陸奥が戦わずして爆沈という最悪のニュースを内外に報道することができなかったという事情もある{{Sfn|大本営海軍部|1982|p=141}}<ref>[[#歴群15長門型]]p.189</ref>。
もっとも連合艦隊各艦にはニュースが通達されており、陸奥爆沈直前に病気療養のため退艦・転勤した[[福地周夫]]は、着任先の[[海軍兵学校 (日本)|海軍兵学校]]教官達から「君は幽霊ではないか」と驚かれたという{{Sfn|空母翔鶴海戦記|1962|pp=148-149|ps=福地は、6月15日付で海軍兵学校教官。}}。さらに休暇上陸後に国民から「陸奥が爆沈した」と教えられたと証言する戦艦[[武蔵 (戦艦)|武蔵]]の乗組員もいる<ref>佐藤太郎『戦艦武蔵』(河出書房、1975)48頁。当時、武蔵は木更津沖に投錨中。</ref>。呉でも陸奥爆沈の情報は確証を持って語られていたという<ref>橋本廣『機動部隊の栄光』255頁</ref>。[[舞鶴海軍工廠]]では陸奥爆沈に「弱り目に祟り目だ」との声が流れた{{Sfn|舞廠造機部|2014|p=264}}。
終戦後の1945年(昭和20年)12月9日、[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]は[[NHKラジオ第1放送]]・[[NHKラジオ第2放送|第2放送]]を通じて『[[眞相はかうだ]]』の放送を開始、この中で陸奥沈没を『航空母艦[[信濃 (空母)|信濃]]、[[雲龍 (空母)|雲龍]]、[[瑞鶴 (空母)|瑞鶴]]、[[千代田 (空母)|千代田]]、及び戦艦奥陸(陸奥)は何時、何處で撃沈されましたかお知らせ下さい』という題で放送した{{#tag:Ref|『航空母艦信濃は、昭和十九年十一月の二十九日本州南方で、アメリカの潜水艦の爲撃沈されました。航空母艦雲龍は昭和十九年十二月の十九日東支那海で同じく、アメリカの潜水艦の爲撃沈され、航空母艦瑞鶴は昭和十九年十月二十五日、ヒリツピン諸島ルソン島北方洋上で、アメリカの雷撃機の爲轟沈されました。航空母艦千代田は、瑞鶴と同じ時昭和十九年十月二十五日、同じ場所ルソン島西方洋上で、アメリカの雷撃機びに艦隊の爲撃沈されました。最後に艦陸は昭和十八年六月の八日に廣島で、爆事故により沈しました。』<ref name="真相はかうだp.15">[[#真相はかうだ]]p.15</ref>|group="注"}}。
 
==== 爆発の原因 ====