「日中関係史」の版間の差分

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しかし、[[唐]]の第二代皇帝の[[太宗 (唐)|李世民]]によって「[[貞観の治]]」が訪れる。[[630年]]に[[遣唐使]]として[[犬上御田鍬]]が派遣された。また、唐からは[[高表仁]]が来朝、[[冊封]]関係を要求したが[[朝廷#日本の朝廷|朝廷]]はそれを拒否している。608年の[[遣隋使]]派遣に参加しした者たちの帰国が632-640年に実現し、その内の[[旻|僧旻]]・[[高向玄理]]は[[天智天皇|中大兄皇子]]の政治顧問([[国博士]])として645年からの[[大化の改新]]に貢献した。658年の[[阿倍比羅夫]]による[[蝦夷]]征伐を経て、朝廷は唐とその冊封関係にあった[[新羅]]による侵略で660年に滅亡した[[百済]]の復興をめざして唐の[[水軍#中国の水軍|水軍]]と干戈を交えることになるが、[[663年]]の[[白村江の戦い]]で敗北を喫した。それ以後、朝廷は「[[安全保障]]」に目覚め[[北九州]]に[[防人]]、[[大宰府]]に[[水城]]をそれぞれ設置する。[[庚午年籍]]の作成を命じた[[天智天皇]]の皇位継承を巡って[[672年]]に[[壬申の乱]]が起きて、翌673年に[[天武天皇]]が即位すると[[天皇]]を中心とした[[中央集権#日本|中央集権体制]]が確立して「[[皇親政治]]」の時代が始まる<ref>[[天皇親政]]が本格的に始まるのは8・9世紀の[[桓武天皇]]・[[嵯峨天皇]]の頃である。</ref>。
 
「[[太平公主#武韋の禍|武韋の禍]]」で混乱していた[[唐]]との交流は[[701年]]から再開、唐への[[朝貢]]は続けることで'''[[日本#国号|日本]]'''という国号が認められ、[[大宝律令]]の完成で[[律令制#日本の律令制|日本の律令国家体制]]が確立していく。多くの[[留学生]](るがくしょう)・[[留学僧]]を唐に派遣し、唐の先進文化を吸収する一方で緊迫した東アジア情勢を把握することも[[遣唐使]]派遣の目的になっていく。唐の[[開元通宝]]を手本に[[和同開珎]]の鋳造が始まり、[[平城京]]は唐の[[長安]]を手本に整備された。[[阿倍仲麻呂]]・[[吉備真備]]・[[玄ボウ|玄昉]]・[[井真成]]などが717年の遣唐使に随行し唐の文化を総合的に学ぼうとする態度が見受けられ、唐からは[[753年]]に[[鑑真]]らが遣唐使船で来朝して[[天平文化]]が花開く。しかし、[[755年]]に始まった[[藩鎮|節度使]][[安禄山]]が蜂起した[[安史の乱]]によって8世紀の後半には[[均田制]]・[[租庸調|租庸調制]]が崩壊するなど唐の国家財政を圧迫し、両者とも帰国を断念する傾向も生まれたが、804年の[[遣唐使]]派遣で随行した[[最澄]]・[[空海]]は帰国後に[[日本の仏教|日本的な仏教]]の基礎を作り上げた。また、この頃になると短期で唐へ留学するものも現れたが875年の[[黄巣の乱]]で唐が実質的に崩壊すると、[[菅原道真]]は[[894年]]に遣唐使を廃止する建議を出した。[[10世紀]]の日本は[[藤原氏#藤原氏北家と摂関政治|藤原氏北家]]による[[摂関政治]]と[[国風文化]]が全盛時代を迎えるが、当時の[[平安貴族]]の間では[[白居易]]の『[[白氏文集]]』や『[[文選 (書物)|文選]]』などの[[漢籍]]は必須の教養とされていた。[[遣渤海使]]が811年に、[[渤海使]]が926年に終わると[[朝廷#日本の朝廷|朝廷]]は対外消極策を採っていく。日本国内では[[荘園]]が発達し、地方の乱れが顕著になると[[武士]]が頭角を現し始めていった。一方、中国大陸は群雄が割拠する[[五代十国時代]]を迎える。以後は、少なくとも[[935年]]から[[957年]]にかけて[[呉越]]が日本との間に正式に国交を開き、往時ほどではないものの多少の貿易があった。また、[[遼]]と日本との間にも、僅かながらに私貿易が行われた。
 
== 中世 ==