「橋本龍太郎」の版間の差分

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一般には整髪剤は「[[ポマード]]べったり」と受け取られているが、実際には水性の[[ヘアクリーム]]を使っていたと本人が語っている。学生時代から通していたという<ref>『<small>仕事師と呼ばれた男</small> 橋本龍太郎』199頁</ref>。ある時[[鈴木宗男]]が橋本に隠れて「あのポマード野郎」と悪口を話していた所、偶然後ろに橋本がいたため鈴木は顔面蒼白になったが、当の本人は「鈴木君、これはムースだよ」と言って快活に笑ったと言う。橋本の人柄を表す逸話として鈴木本人がよく語っている。
 
[[高校生]]時代からの[[喫煙]]者で<ref>[http://www.mainichi-msn.co.jp/today/news/20060702k0000m040070000c.html 厚生族のドン元厚生大臣 橋本元首相死去] 。</ref><ref group="注釈">たばこ好きとしても知られていたが、1995年10月の麻布高校創立100周年記念祝賀会で「高校の屋上でたばこを吸い始めて以来、[[ヘビースモーカー]]になってしまった」と、あいさつで触れるほどだった。</ref>、生前「私は[[タバコ|煙草]]をやめない」と断言している。[[チェリー (たばこ)|チェリー]]を愛飲していた。親友の[[安部譲二]]に[[ピース (たばこ)|ピース]]を勧められても、頑なにチェリーを吸い続けていたという。
 
橋本は内閣総理大臣在任中も、[[高知県知事]]になって東京から離れた腹違いの異母弟・[[橋本大二郎|大二郎]]に代わって、しばしば公務の合間に入院中だった義母を見舞った。
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弟の大二郎がNHK記者だった頃、恋人と結婚したいという相談を兄の龍太郎にした。諸々の事情から龍太郎は、母が[[結婚]]しないほうが良い、と助言した。だが、大二郎が二の句を継がせずに結婚したい意志を伝えると、龍太郎は「よしわかった、俺に任せてくれ」と言ってその場を引き取り、時間を要して母を説得して、大二郎の結婚の承諾を得たという。その説得の過程では、龍太郎の苦労と母の涙があったという(2014年4月28日放送『[[徹子の部屋]]』より本人談)。
 
==== 女性関係 ====
女性関係を指摘されることが多く、そのために首相になり損ねたことがあったらしい。[[宇野宗佑]]退陣後に就任した[[海部俊樹]]が回顧録で、[[金丸信]]から首相就任を持ち掛けられた際、橋本はこれ(右手の小指)があるから駄目だと言われたために、その後橋本に直接質したところ「残念ながら、おれにはあるんだ」と答えたと回想している<ref>[[海部俊樹]] [http://www3.grips.ac.jp/~oralreport/view?item=100025 海部俊樹『海部俊樹オーラルヒストリー(下)]』p.168</ref><ref group="注釈">なお、ここで海部は「河野(洋平)にもあった」と余計な発言をしている</ref>。もっとも久美子夫人の立ち振る舞いもあってか、政治的スキャンダルに発展することはなかった。
 
1990年に[[銀座]]ホステスとの関係が週刊誌で「橋本龍太郎の一夜妻」として取り上げられ、総理在任中の1996年に当人が[[暴露本]]を出版しマスコミを賑わせた。
 
1996年、[[中国共産党]]政府関係者を夫に持ち[[駐日中華人民共和国大使館|駐日中国大使館]]への勤務経験もある中国人女性との親密な関係が報じられたが、後に、この女性は[[中華人民共和国公安部|北京市公安局]]の情報工作員、すなわち[[スパイ]]だったことが判明した<ref>{{Cite web |url=https://www.news-postseven.com/archives/20140826_269773.html?DETAIL |title=橋本元首相、新聞記者ら 中国ハニートラップにハマった人々 |publisher=[[NEWSポストセブン]] |date=2014-08-26 |accessdate=2020-02-13}}</ref>。また「[[諸君!]]」1998年6月号で、[[加藤昭]]は橋本が総理在任中に[[中華人民共和国]]の女性官僚と関係があったと報じた。<!--女性は中国側の[[スパイ]]とみられていたが、-->の一連の[[ハニートラップ]]疑惑について橋本側は、女性は中国大使館に勤務する[[通訳]]であり、職務上接点があっただけと釈明した。なお、橋本は日中友好団体の[[日本国際貿易促進協会]]会長を務めており、中国へのODA事業などを積極的に進めていた。
 
なお、橋本は日中友好団体の[[日本国際貿易促進協会]]会長を務めており、中国への[[政府開発援助|ODA事業]]などを積極的に進めていた。
 
「[[文藝春秋 (雑誌)|文藝春秋]]」2008年9月特別号で[[米原万里]]に橋本から関係を迫られたと聞いたとする[[佐藤優 (外交官)|佐藤優]]の記事が掲載された。米原は橋本が総理在任中のモスクワ外遊時に通訳を務めていた。佐藤は後に自著『インテリジェンス人間論』においても同様の記述をしている。両者とも故人のため、コメントは得られていない。
 
1994年の[[週刊文春]]の[[阿川佐和子]]との対談で「政界の[[杉良太郎]]」と呼ばれていますねと問われ「光栄です」と笑い、ご婦人層の人気の秘密はと聞かれ、「まだ、大人になりきってないからじゃないんですか」と答えている<ref>[http://hon.bunshun.jp/articles/-/1215 切れ者で正直すぎる政治家 橋本龍太郎] 文春写真館</ref>。
 
=== 登山家として ===
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橋本は、95年の総裁選で総裁に選出された際、うっすら涙を浮かべていた。[[経済産業大臣|通商産業大臣]]に就任した[[塚原俊平]]は、橋本に会の報告に行った際の様子について、「ただ『有難う』といって、『僕も疲れたよ』とそんな感じでした。でもその後聞いたら、我々が帰った後で涙を流して喜んだということでした。おかしな人ですね。それなら私たちの目の前で喜べばいいのに。それが彼のシャイなところというか、パフォーマンスが下手な人ですね。」と述べている<ref>小説 角栄学校 267-268頁</ref>。最後に総裁選に出馬したころは、テレビ座談会で司会の[[久米宏]]に「睨まないでくださいよ」と言われて「睨んでないですよ。優しい眼差しを投げかけているんじゃないですか」と切り返す余裕も備わっていた。
 
早くから自民党および田中派のエースと目され、重要ポストを歴任し首相に就任したが、退任後は傀儡の形で派閥の会長に就任し総裁選に再度出馬も落選、[[スキャンダル]]で引退を余儀なくされそのまま翌年死去と、華々しいキャリアの割にはいささか寂しい晩年であった。
 
マスコミからは「芝居上手」ともいわれていた。芝居がかった喋り方などの特徴から「橋龍さんは非常に芝居が上手い」等ともいわれていた。首相時代に自民党のCMにも出演していた際にもその様子が窺える。