「小錦下」の版間の差分

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(柿本猨に修正。10人を削除(舎人糠虫のことと想定される)。坂合部石敷を削除。)
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『[[日本書紀]]』の中で冠位と名前がともに判明する例を冠位ごとに数えると、小錦下が最多である。この冠位が身分的に特別視される[[大夫]]の下限であることが、史書に記される機会に影響するらしい。後の[[従五位下]]と同じである。
 
[[遣唐使]]では、[[白雉]]5年([[654年]])の大使[[河辺麻呂]]と[[皇極天皇|斉明天皇]]5年([[659年]])に難破して死んだ[[坂合部石布]]がいる。
 
[[遣新羅使]]では、[[天武天皇]]4年([[675年]])に副使になった[[三宅入石]]や天武天皇10年([[681年]])に大使として使わされた[[采女竹羅]]がいる。同じ年には筑紫に来た新羅使[[金忠平]]をその地で饗応するために、小錦下の[[河辺子首]]が派遣された。天武天皇13年([[684年]])には、小錦下の[[高向麻呂]]が大使として新羅に遣わされた。
 
*[[河辺麻呂]] - [[白雉]]5年([[654年]])2月。遣大唐大使。
*[[坂合部石布]] - [[皇極天皇|斉明天皇]]5年([[659年]])7月3日見 - 同月没。遣唐使。
*[[鬼室集斯]] - [[天智天皇]]4年([[665年]])2月叙位、同10年([[671年]])1月叙位。達率。
*[[紀訶多麻呂]] - 天武天皇2年([[673年]])12月17日見。造高市大寺司。