「六角精児」の版間の差分

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厳密には「姫路市で生まれ、幼少期を高砂市で育っている<ref name="westjr" />」という。小学生の時に高砂市から相模原市へ引越す<ref name="don" /><ref>{{Cite news |url=http://www.yomiuri.co.jp/otona/tamatebako/13/etc/20121022-OYT8T00651.htm |title=温泉や駅弁より列車に乗るのが最優先…六角精児さん |newspaper=YOMIURI ONLINE |publisher=読売新聞社 |date=2012-10-24 |archiveurl=https://archive.is/20130702193704/http://www.yomiuri.co.jp/otona/tamatebako/13/etc/20121022-OYT8T00651.htm |archivedate=2013年7月2日 |deadlinkdate=2017年9月 }}</ref>。このため[[関西弁]]も話せる<ref name="my-pro" />が、日常生活では[[関東弁]]を話す。
 
最初、芝居は好きではなかったと発言し、「中学生の時に演劇部を見たが、あれをやる人の気持ちがわからない」とも語っている<ref name="nikkansports20131110">[[日刊スポーツ]] 2013年11月10日芸能面(28面)「日曜日のヒーロー877・六角精児」より。</ref>。進学した[[神奈川県立厚木高等学校]]<ref name="don" />では、当時、生徒全員部活に入部しなければならない決まりになっており、たまたま誘われた演劇部に入部。この時はすぐに退部できそうだと思っていた<ref name="nikkansports20131110" />。しかし、当時の演劇部部長の[[横内謙介]](後の[[劇団扉座]]座長)<ref name="don" />に六角がキャスティングされて出演した舞台が演劇コンクールの全国大会まで進出、結局その後もずっと演劇部には在籍していたが、その後も「早く終わらないかな」などと思っていた一方で「観客の前に立つというドキドキする思いが嫌いじゃなかった」とも語っている<ref name="nikkansports20131110" /><ref>その当時の事を、横内謙介は『ホテルカリフォルニア 私戯曲 県立厚木高校物語』に描いている。六角精児は宮城という名前になっている。</ref>。その後、横内を中心としたこの時の演劇部のメンバーで'''善人会議'''を創立し、六角も誘われて入団。後に'''[[劇団扉座]]'''と改名して活動<ref name="town">[http://www.townnews.co.jp/0404/2011/05/13/104187.html タウンニュース厚木版 2011年5月13日 六角精児さんの父 山地悠一郎さん本で息子を応援]</ref>。
 
大学は最初、[[日本大学芸術学部]]を受験。この時の実技テストには、[[丸太]]を[[赤ちゃん]]に見立てて抱く演技、[[鐘]]で寒さを表現する演技があったが(この時に、丸太を落として普通に拾ったり、ただ鐘を鳴らして「寒い」と言っただけだった、と語っている)、日本大学は不合格となった<ref name="nikkansports20131110" />。浪人生活の後、[[学習院大学]]に合格して入学<ref name="don" />。学習院には、在学していた[[皇族]]に興味を持って入った。実際に[[皇太子徳仁親王|皇太子]]をトイレで見かけ、[[秋篠宮文仁親王|秋篠宮]]とは[[法学]]の授業で一緒になったことがあった<ref name="nikkansports20131110" />。しかし、大学在学中に、高校の先輩で「善人会議」を主宰する横内謙介の舞台に出演するようになったことで、劇団の活動に時間をとられ2年から進級できず、6年間在籍した後に大学を中退する<ref name="nikkansports20131110" />。20歳頃に、横内に「六角精児」という芸名を付けられる。「とにかくインパクトある名前を」ということで、「精児」は[[精子]]に由来している<ref name="nikkansports20131110" />。同じく俳優であり、名前が似ている[[六角慎司]]とは特に関連性はない。